オレシュキから避難した住民たちの声
私たちは、一時的被占領下オレシュキから人々を運ぶバスを待っている。寒く、薄暗く湿った天気だが、現場では人々を出迎え、支援を与えるための必要な体制が既に整えられている。全ての関係当局の代表者が活動しており、医療従事者、心理カウンセラー、ウクライナ最高会議人権問題担当全権代表事務所の代表者、ボランティアが到着した。彼らは人々を受け入れ、そのニーズを評価し、最初の組織面の課題について支援する準備を進めている。
暖をとるための移動式拠点には温かい食事、飲み物、軽食が用意されており、疲労を伴う長時間の道のりの後、希望者が食事をとり体力を回復できるようになっている。また、餌と水を用意したペット用のコーナーも別途設けられた。
これは、ドニプロ川左岸、ヘルソン州のロシアの占領下にあるウクライナの町、オレシュキの住民のための人道ミッションだ。
執筆:ミロスラヴァ・リーパ
写真:ミロスラヴァ・リーパ、イェウヘン・コテンコ、ダニーロ・アントニューク
オレシュキからの避難民を出迎える準備 写真:イェウヘン・コテンコ/ウクルインフォルム
私たちが待つ人々は、危険と最も厳しい欠乏状態の中で長期間生活してきた。そのため、彼らを迎える準備とは、単なる移送や受け入れ準備だけでなく、到着後の最初の数時間に基本的な物資を提供する機会でもある。
私たちが最初に目にしたのは人々を乗せたバスではなく、鳴き声が聞こえるトラックだった。ペットたちだ。

「UAニマルズ」のボランティアたちは、ここには人々が連れてきたペットや、路上から救出された動物たちが乗せられていると説明した。動物たちは一時的に保護施設に収容され、そこで診察を受け、必要に応じて獣医の支援が提供される。その後、ペットは飼い主に戻され、保護された動物には新しい家族が探されるという。
そして、ついにバスが到着した。近くの人が「今はどうやったら泣かずに仕事できるか、わからない」と言う。バスから最初の住民が降りてくると、そこにいた人たち全員が涙をこらえられなくなった。特に、誰かが切実な声で「お母さん!」と何度も叫んだ時には、なおさらだった。
動画:ダニーロ・アントニューク/ウクルインフォルム
脱出を試みた住民は行方不明になった
バスの近くに立っていたセルヒー、オレフ、オレクサンドルという3人の男性と知り合った。
セルヒーは、自分たちのことにつき、「ロシア軍が撤退した時(編集注:2022年秋のヘルソン市からの撤退のこと)、彼らは全てを切断した。ドニプロ川沿いの広大な地域で、道路が遮断されたのだ。それから、あのダゲスタン人やチェチェン人が入ってきた。ただただ常軌を逸していた。異様に聞こえるかもしれないが、もしその前にロシア連邦保安庁(FSB)の者たちが私たちを地下室へ連行していなければ、彼らは多分、私たちを射殺して埋めてしまっていただろう」と語る。
彼は、被占領下での暮らしは常に危険を伴っていたと述べる。人々は砲撃だけでなく、拘束、尋問、選別(スクリーニング)も恐れていた。脱出を試みた一部の住民は行方不明になったという。親族は、その人々に何が起きたか分からず、ロシア側は彼らが行方不明になったという情報を否定した。

残りの穀物と空からの支援で生存
特別な困難は飢えだったという。食料の備蓄は徐々に尽きていき、食料を新しく入手する機会はほとんどなかった。オレクサンドルは、占領の年数が進むにつれて状況は悪化していったと述べる。
オレクサンドルは、「最初の年はまあまあだった。それが、2年目に少し悪化し、3年目はさらに悪化、4年目には完全に苦しくなった。過去半年間が多分最も厳しかった。私たちは穀物の残りで生き延びた。米から粉を作った。瓜をすりおろし、ありあわせの食材で食事を作った。人々は互いに助け合っていた。マカロニをくれる人もいれば、野菜をくれる人もいた」と振り返る。
彼はまた、以前は家庭菜園から家族のために食べ物が採れていたが、それも砲弾によって完全に破壊されて、放置されたと伝えた。そのため、残された備蓄や他の人からの支援、食料を入手するあらゆる機会に頼らざるを得なかったという。
そして、時折、空から救援が届いたという。
オレクサンドルは、「私たちは2度助けられた。実質的にそれで救われた。空から少し援助が投下されたのだ。ある時、『バーバ・ヤハー』と呼ばれるこの『女の子』(編集注:ウクライナの大型攻撃用無人機のこと)が飛んできて、畑に何かを落としていった。私は朝それを取りに行った。とても感謝している。本当に救われたのだから」と語った。
ウクライナ政府管理地域に戻った後、彼らは自分たちのことを待っていた親族のもとへ向かう。オレクサンドルは、軍人である息子が待っていると語った。オレフは、娘、母親、父親のもとへ向かう。


飢餓と砲撃を生き抜いた夫婦
ヴォロディーミルと妻のレオニーラは一緒に41年間暮らしてきた。彼は80歳、彼女は72歳だ。2人には以前避難し、両親が占領地を離れるのを手助けした35歳の娘イリーナがいる。娘はニュースを見て両親を導いた。ヴォロディーミルは、最初自分たちはオレシュキを自分たちの家だと考えており、なぜ自らの土地を去らねばならないのか理解できず、避難したくなかったと語った。
ヴォロディーミルは、「私たちはすぐには避難したいと思わなかった。ここは私たちの土地、私たちの家であり、私たちはここに住んでいるのだから。そもそも、なぜ自分たちの土地から出なければならないのか? 私たちが暮らしているのであり、あのロシア人どもこそもと来たところへ帰るべきなのだ!」と語る。
占領下で、この夫婦は飢えと砲撃の両方を経験した。しかし、自分の家からは離れたものの、長い道のりを経て、今また、「家」にいると感じていると述べる。
ヴォロディーミルは、「私はとても幸せで、もし許されるなら、すぐにでもシャンパン100ccとウォッカ50ccを飲みたいくらいだ! 今はただ勝利まで生き延びたい!」と語る。
鎮痛剤などの医薬品はなく、手術は行われない
もう1人の到着した住民のリュドミラは、ウクライナ政府管理地域に到着した後、平穏、安心感、保護を感じたと語った。現在彼女は、以前避難した子どもや孫たちと会って、彼らを抱きしめることを望んでいる。同時に彼女は、オレシュキにはまだ多くの人々が残っているとも語る。
「一人一人にそれぞれの事情があるのだ。重病だったり、親族の介護の必要性だったりだ。しかし、彼らは皆、誠実なウクライナ人であり、ウクライナを愛し、解放を待っている。オレシュキはこれまでも、これからもウクライナだ。彼らが解放される時まで生き延び、私たちが育った場所、私が教師として働いた故郷の姿を見たい」と述べる。
彼女はまた、自分と夫は、以前は健康上の問題から避難できなかったと述べる。最初は夫が重病にかかり、その後彼女自身も病に倒れた。彼女は緊急の手術が必要となった。今回の占領都市を脱出できる機会が生じた時、夫婦はそれを利用することに決めた。
リュドミラは、「そこには本格的な医療支援がほぼ存在しない。鎮痛剤を含む医薬品はなく、手術も行われない。人が負傷した場合、傷口を縫合できる外科医が2人いるだけだ。オレシュキに残った人々が生活するのは非常に困難だ」と語った。
動画:ダニーロ・アントニューク/ウクルインフォルム
最も恐ろしかったのは、子どもを奪われるかもしれないという感覚
概して、周囲には子ども連れの親はあまり見られない。しかし、それでもいくらかは見られる。
子連れの母親であるイリーナは、占領下で、9歳の娘ダリーナに自分で教育を行おうと試みたと語る。彼女は子どもと一緒に数学を勉強し、九九や詩などを教えた。
彼女はまた、最近の子どもの生活は家の中と庭に限定されていたと述べる。子どもを連れて通りに出るのは危険だったため、彼らはほとんどどこにも行かなかったという。ダリーナは家にいるか、庭で遊んでいた。
イリーナは、「ダリーナの人生の半分は戦争だ。最近、私は彼女にとっての教師であるだけでなく、心理カウンセラーにもならなければいけなかった。同年代の子供とのコミュニケーションがなく、遊んだり面白い遊びに参加したりできなかったため、彼女は非常に苦しんでいた」と語った。
食料の配送が停止した時、家族は残されたもので生き延びなければならなかったとし、彼らは主に瓜とレタスを食べていたという。
イリーナは、これまでは、占領地から避難することができなかった。そのためには、ロシアの国籍証明書を取得しなければならなかったからだ。彼女は、娘の将来への心配もあって、その取得を拒否した。
イリーナは、「私は、娘がロシア国民になることを望まなかったのだ。なってしまえば、彼らは娘を連れていくおそれがあった。多分、最も恐ろしかったのは、子どもを奪われるかもしれないという感覚だった。私はまだ誰にもこのことを話したことはない」と打ち明けた。
イリーナはまた、母親である彼女の同行なしで、娘のダリーナを児童キャンプ「アルテク」(編集注:被占領下クリミアに位置する)へ送ることを提案されたと述べる。彼女は、キャンプが終わってから娘が家や親族から遠く離れた場所に連れて行かれることを恐れた。彼女は短時間であっても娘を親の目の届かない状態に置かないよう気をつけたと語った。水を入手するためなどで外出する必要がある場合は、娘とは、家から出ないようにと約束を交わしていた。
ペットのレオは見つけたものを全て食べていた
オクサーナと娘のカテリーナは、家族の一員と考えているペットの犬「レオ」と一緒にオレシュキから避難した。レオは小型であるため、移動中はバスの中のキャリーバッグの中におり、オクサーナは始終そばにいて歩き回らせていた。
彼女によれば、占領下で、レオは見つけることができたものを全て食べていたという。粥、パプリカ、トマト、キュウリ、ジャガイモ、イチゴ、ラズベリーといった具合だ。オクサーナは、レオはそれによってその時期を生き延びられたと推測している。
彼女は、そのことにつき「ドッグフードに慣れていなかったことが彼を救ったのだと思う。そうでなければ大変だったろう。おかげで少し痩せただけで済んだ」と語った。
オクサーナはまた、以前家族にはオカメインコがいたと語った。
「私たちがウクライナへ向かう可能性が生じるほんの数日前に死んでしまった。健康上の問題はなかったのだが、餌を入手することができなかったのだ。」
彼女は、それでも今日は、悲しいというよりは嬉しい日だと言う。多くの親族がようやく再会し、誰かにとってはただ安全を手に入れたのだから。
私たちはメラニア・トランプさんを信じた
ラリーサとアントニーナはオレシュキの自宅を失った。2人で避難し、ここでラリーサの娘でありアントニーナの孫娘であるアーニャが2人を出迎えた。
ラリーサは、「避難する時になって、焼け落ちた我が家へ行ってみた。私は泣いた。そこは私の起源なのだから。自分で建てたのだ、両親と一緒に。私たちはそこを離れたくなかった」と語った。
ラリーサの娘アーニャは、全面侵攻開始のちょうど前日である2022年2月23日にキーウへ避難していた。ラリーサは「彼女は間に合った」と語る。
オレシュキからはロシアを経由するルートを通らなければならない中、今回、どのようにして避難することを決めたのかという質問に対して、ラリーサは、最大の望みは「ホーム」に帰ることだったと答えた。
「私たちはとても『ホーム』に帰りたかったのだ。だから、もう何ものも私たちを留めることなどできなかった」と語り、そして、笑いながら「私たちはメラニア・トランプさんを信じたのだ。彼女が出発できると言ったから、私たちは彼女を信じた」と付け加えた。
キーウでは、ラリーサの息子夫妻と孫たちが待っている。また娘婿も待っている。全面戦争の間にアーニャは結婚した。
避難した市民のうち、最高齢は94歳、最年少は1歳余り
既報のとおり、今回の人道ミッションは、自らの意志にもとづいた占領地域からの避難の機会が確保されていただけでなく、オレシュキに残ることを決めた人々への支援の配送も想定していた。

オレシュキから到着した人々が休息し、暖をとっている間、ルビネツ宇最高会議人権問題担当全権代表がそのことについて報告した。
ルビネツ全権は、「『残りたい』と言った人々はそこに残った。私たちは彼らに大量の支援物資を届けた。『ウクライナに行きたい』と言った人々は今日ここに到着している。ご覧の通りだ。『ロシア連邦に行きたい』と言った人々もいた」と伝えた。
ルビネツ氏は、避難した人々の内、最高齢の人は94歳、最年少は1歳余りだと伝えた。同時に、避難に成功した人数の公表は控えた。
そして同氏は、「今回の出来事については様々な受け止め方があることは理解している。今、私たちの大きなチームが国民を帰還させることができたことを、私は幸せに感じている。たとえ私たちが出向いていき、連れ戻したのが1人だけであったとしても、私は同じように行動していただろう」と述べた。

同氏は、政府管理地域に帰還した一人一人に対して、医療支援、社会保障、失われた書類の復元、給付金といった、今後のサポートが確保されると伝えた。
そして同氏は、この人道ミッションの経験により、今後類似の試みを実現することを可能にすることへの期待を表明した。
同氏はその際、「私にとって極めて重要なことは、オレシュキでの人道ミッションが一回限りで終わらないことだ。この経験は、最も複雑な人道危機に対応するための新しいメカニズムの基礎となる可能性を秘めている。そのメカニズムの中心には、常に人間、安全、そして生存の権利が据えられていく」と強調した。