本日は、クルーティの英雄記念日

本日は、クルーティの英雄記念日

ウクルインフォルム
ウクライナでは、1月29日は、101年前の1918年にクルーティの戦いに参加した英雄を称える日と定められている。

ウクルインフォルムが伝える。

「クルーティの戦い」とは、1917~1921年のウクライナの解放闘争の歴史における悲劇的かつ伝説的な出来事の中の一幕である。

1917年12月末、ソヴィエト・ロシアは、ウクライナ人民共和国に対して、大々的な侵略を開始した。ソヴィエト・ロシアは、ウクライナ人民共和国が独立主権国家を宣言したため、非常にいらだっていた。まず、ロシアは、ハルキウ市に「ソヴィエト・ウクライナ」政府を創設。これが既に独立を宣言していたウクライナ人民共和国に対する実質的な開戦宣言となる。そして、バルト、モスクワ、ペトログラード、プスコフ、スモレンスク等から赤軍がウクライナに進攻する。その進攻を「内戦」ということにしつつ。

1918年1月29日、キーウ(キエフ)から北東130キロ地点のクルーティ近郊、チェルニヒウ地方のニージニーとバフマチの間にて、この戦闘が起こる。ボリシェヴィキ・ロシア軍を率いていたのは、ミハイル・ムラヴィヨフ大佐。バフマチを防衛していたのは、1917年12月末以降、第一キーウ青年学校の小隊であった。バフマチは、ウクライナ人民共和国とソヴィエト・ロシアの鉄道の接点となる重要地点であった。1918年1月27日、キーウから増援が到着。この増援は、ウクライナ人民大学と聖ヴォロディーミル記念キーウ大学(現タラス・シェウチェンコ記念キーウ国立大学)の学生や、オメリチェンコ氏率いる各ギムナジウムの高学年生徒からなる、志願兵部隊「第一新設学生隊」であった。

そして、1月29日。ウクライナ軍は、クルーティ駅の周辺を防衛する。29日朝、約4000名の兵からなる、ペトログラードやモスクワから来たボリシェヴィキ赤軍部隊の進攻が始まる。この激しい戦いに参加する運命となったウクライナ軍の戦力は、300名の学生隊、250名の第一軍事学校の生徒、40名の志願者、それだけであった。

戦闘は、夜まで続いた。数回の攻撃を跳ね返すも、ウクライナ側の損耗は大きく、死者、負傷者、捕虜として拘束された者を合わせ、最大300名を失った。アヴェルキー・ホンチャレンコ司令官は、2キロ後ろの鉄道車両のある地点まで撤退する命令を下す。撤退の最中、学生隊の一部が包囲され、激しい戦闘を繰り広げるも、両者の戦力差は大きかった。学生隊の一小隊は、暗がりの中、方向を見失い、既に赤軍に占拠されていたクルーティ駅に来てしまう。27名の若者が拘束され、その後、銃殺された。彼らの最年少は、16歳であった。

銃殺後、赤軍兵は、地元の村民に死体を埋葬することを認めなかった。その後、キーウ市が赤軍から再奪還・解放されてはじめて、ウクライナ政府の命令により、1918年3月19日、アスコリド墓地にて、クルーティの戦いで亡くなった者たちの葬儀が行われた。

ソ連時代に、このクルーティの戦いの戦死者の墓は、破壊された。数十年にわたり、この戦いは黙殺されるか、伝説あるいは空想として葬り去られていた。

1991年、ウクライナが独立して以降、クルーティの英雄の戦いは、国家独立のための犠牲の戦いとして改めて見直されるようになった。国家がこの戦いを祝うようになったのは、2003年からである。2013年5月16日には、最高会議決議により、クルーティの英雄追悼が定められた。また、クルーティ駅には、2006年に「クルーティ英雄記念碑」が設置されている。


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