ウクライナ国旗に関する25の事実

ウクライナ国旗に関する25の事実

ウクルインフォルム
独立記念日の前日である8月23日は、ウクライナ国旗の日と定められている。ウクルインフォルムは、この日に合わせ、青と黄のウクライナ国旗について調査を行った。

ウクライナ国旗の歴史は、ウクライナの古代から現代までの国史全体を反映している。キーウ・ルーシ(キエフ大公国)のキリスト教受容に始まり、この2色は、何世紀にも渡り、ウクライナ国家の旗に常に使われてきた。現在の2色が上下平行に配置されたものが最初に掲げられたのは、1848年、リヴィウにおいてである。ソ連時代には、この2色を合わせることは、危険な犯罪かのように扱われ、迫害を受けた。青と黄の旗の下、1917年、1941年、1990年の3度に渡りウクライナ国家の成立が宣言されたし、ウクライナ独立時、二つのマイダンという現代の3つの革命においてもこの旗が掲げられた。そして今、帝国的ロシアによるドンバスとクリミアへの軍事侵略に対する戦争においても、この青と黄の旗がたなびいている。

古代~近代におけるウクライナの旗

青と黄の2色が最初に組み合わされたのは、リヴィウの紋章においてである。ダニーロ・ハリツィキー王が、1256年に設立されたリヴィウに青色の背景に黄色い獅子を描いた紋章を献上している。

この2色は、ハーリチ公国の紋章として14世紀から正式に採用された。この色の組み合わせは、地元の豪族・貴族によって使用されていた。

ザポロージャ・シーチのコサックの旗にも、青と黄の組み合わせは頻繁に見られており、18世紀のはじめに特に多く確認されている。その際、通常は、旗の中には金や赤の衣装をまとったコサックの絵が描かれていた。

1848年の民族主義の高揚「諸民族の春」の際、リヴィウのルーシ総評議会では、13~14世紀の青を背景とした金の獅子からなる、ルーシ国家(ハーリチ=ヴォリーニ国)の紋章再採用を決定し、青と黄色からなる旗も幅広く使われていた。

また、画家のイッリャ・レーピンが制作した「トルコのスルタンに手紙を書くザポロッジャ・コサックたち」(1891年)の絵には、コサックの頭領たちの上には、青と黄、赤と黒の旗が描かれている。レーピンがこの絵を描いていた時、アドバイスをしていたのはウクライナ・コサックを研究していた著名な歴史家のドミトロー・ヤヴォルニツィキーであった。レーピンは、ヤヴォルニツィキーの収集物から、武器や旗などのコサックの所有物を描いたのである。

ウクライナ独立の闘い

1917年の2月革命後、同年3月16日、キーウ(キエフ)、オデーサ、ハルキウにて、ウクライナの青と黄の旗が公の場で掲げられる。第一次世界大戦の前線と黒海艦隊ににおけるロシア帝国軍部隊のウクライナ化は、ウクライナの旗の下で生じたのである。

1917年3月17日、中央ラーダ政権の成立が宣言される。この時より、キーウでは国家レベルでウクライナの青と黄の国旗が掲げられるようになる。ウクライナ国家の最初の大統領であるミハイロ・フルシェウシキーが、青と黄の組み合わせを正式な国旗として採用したのである。

この旗の下、ウクライナの若者たちがクルーティでロシアのボリシェヴィキ軍と戦い、ウクライナ・ハリチナ軍の戦士たちが、ウクライナ・ポーランド戦争や反ボリシェヴィキ前線を戦ったのである。青と黄の旗は、西ウクライナ人民共和国の国旗にも採用されていた。

なお、現在まで、青と黄の色の配置についての議論は続いている。青が上か、黄が上か、という論争である。ウクライナ人民共和国では、黄が上だったという主張があるが、現代の学者たちは、そのような決定がなされたことを確認できる文書は存在しないと説明する。当時のカラー絵はがきを見ると、青が上のものと黄が上のものの二通りのパターンが存在したことが確認できる。

1940年代初頭、ステパン・バンデラを筆頭とするウクライナ民族主義組織(OUN(b))の革命組織は、赤と黒の二色をシンボルとして用いることを求めていた。これは、青の旗と金色の三又の矛と剣を紋章として使っていたアンドリー・メリニク率いるOUN(m)との差別化を図るためであった。ポーランド政権がハリチナ地方で黄と青の旗をウクライナ人が使うことを迫害していた1920年代、赤と黒の旗が若者、とりわけ「プラスト」の間で人気を得ていた。しかし、独ソ戦が開始し、赤と黒の組み合わせは非公式の象徴にとどまった。

1940~50年代、ウクライナ放棄軍(UPA)の兵士たち(OUNの戦闘員)の多くは、赤と黒の組み合わせについて知ることもなく、ただ青と黄の旗を地下の秘密基地に掲げていた。

ソ連時代

ソ連において、青と黄の旗は、使用はおろか、所有するだけで犯罪とみなされ、厳しく罰されていた。1950~80年代のKGBのリストには、ウクライナ領にてこの旗を掲げた事例がひんぱんに報告されている。

1966年5月1日、キーウ人民経済研究所の建物の上に、26歳のヴィクトル・ククサと28歳のヘオルヒー・モスカレンコが青と黄の旗を掲げている。その際、赤いソ連の旗は破られ、変わりにウクライナの旗を掲げたのである。その旗は、2枚の青と黄のマフラーを縫い合わせて作られており、手書きで「ウクライナはいまだ死なず。ウクライナはいまだ殺されていない!」と書かれていた。この二人には、有罪判決が言い渡され、その後何十年も、ウクライナが独立した後ですらしばらくの間、名誉回復が行われなかった。

1967年12月30日、ドニプロペトロウシク(当時)の中央広場にて、不明の人物が青と黄の旗を掲げる。旗を支える棒の部分には、「ウクライナも、自由も栄光も、いまだ死なず。11月20日、ウクライナ人民共和国生誕50年。1918年1月22日にウクライナ独立が宣言」と書かれていた。

1976年2月21日、青と黄の旗がキーウのフレシチャーティク通りの第21の建物の屋根に掲げられた。

1976年7月22日、モントリオール・オリンピックの際のハンドボールのソ連対ルーマニア戦時、トロントの学生のリュボミール・シューフがウクライナの旗を掲げたが、これにより彼は会場から追い出された。その際、オリンピック運営委員会広報官は、シューフ氏の行動は政治的抗議の意味を含む行為であり、「潜在的に危険な」旗を掲げることは「騒動を引き起こすおそれ」があったと説明している。

1976年7月27日、同様のオリンピックの際、サッカー準決勝、東ドイツ対ソ連戦において、ソ連代表の大半は、「キーウ・ディナモ」の選手から構成されていた。その際、150のウクライナ人たちが、「ウクライナに自由を!」と書かれたプラカードを掲げた。この試合の後半戦、オンタリオ州サンダーベイ出身の20歳のダニーロ・ミハリ氏がウクライナ民族衣装ヴィシヴァンカを着たまま、競技場内に走り出て、青と黄の旗を広げ、「ウクライナに自由を!」と叫び、コサック・ダンスを踊ってみせた。ミハリ氏の行動は15秒間続いたが、その後警察に取り押さえられ、スタジアムから追い出された。

1989年4月26日、リヴィウのリーノク広場にて、活動家のユルコ・ヴォロシチャクがチョルノービリ(チェルノブイリ)事故関係の集会の際に青と黄の旗を掲げている。

現代ウクライナ

1991年8月24日、最高会議にウクライナ民族旗が持ち込まれる。それまでは、過半数を占めていた親共産主義議員たちは、最高会議内に青と黄の旗が持ち込まれるのをあらゆる手段で妨害し、「民族議会」会派の議員たちが議場の自分の場所で小さな旗を掲げることすら反対していた。しかし、モスクワでのクーデターが失敗に終わった後は、ウクライナ最高会議において国旗を掲げることに反対することは、既に不可能となっていた。

青と黄の旗が、正式にウクライナの国旗と定められたのは、1992年1月28日である。2004年8月には、ウクライナ大統領が大統領令により、8月23日をウクライナ国旗の日と定めている。

2013~2014年のマイダン革命、そして、その直後に始まるウクライナ領への敵の攻撃、それに続く悲劇は、ウクライナ国家のシンボルに対する人々の姿勢を変えることになる。2014年4月17日、東部ドネツィク州ホルリウカにおいて、市議会議員のヴォロディーミル・リバクは、分離主義者の旗を外して、ウクライナの国旗を市議会庁舎に戻そうとしたところ、正体不明の人物たちに拉致される。その二日後、拷問の跡のあるリバク氏の死体が川で地元の釣り人により発見されている。この罪を犯した人物達は、今も侵略国に身を隠している。

リバク氏が拉致される瞬間の動画

侵略国でもウクライナ国旗は知られている。2014年8月20日、Mustangと呼ばれるウクライナの高所登頂者が、モスクワ市内で最も高い地点にある金の星の半分を青色に塗り、「ウクライナ化」を試みている。

ロシアでは、ウクライナの青と黄の旗は、集会でも掲げられており、とりわけ、政治囚や迫害を受けるクリミア・タタール活動家の保護を求める集会にて掲げられる。ロシアのサンクトペテルブルクやモスクワの活動家達は、1944年5月18日のソ連政権によるクリミア・タタール人追放を喚起する「ストラテギヤ18」と名付けられた無期限活動の際に、青と黄の旗を掲げている。毎月18日には、彼らは、通りに出て、クリミア情勢を伝えている。

青と黄の旗は、ドネツィク空港の防衛戦の際にも空港の建物に掲げられていた。敵が旗を打ち破ると、サイボーグと呼ばれるウクライナ軍人たちが何度となく旗を元の場所に掲げた。2014年8月23日、第3独立特務連隊が旗を立てたが、そのドネツィク空港の旗は伝説となり、今でも一年に2回、国旗の日と基地の日に、その旗がクロピウニツィキーの基地に掲げられる。2014年10月16日にも、ミコライウ第79独立航空機動旅団の「サイボーグ」たちが空港に旗を立てた。その際、彼らは、空港施設の最も高い場所、管制塔のてっぺんに青と黄の旗をたなびかせたのだ。敵が管制塔自体を破壊してしまうまで、その旗はそこに立ち続けていた。

最近のニュースの話をしよう。2019年8月9日、被占領下クリミア自治共和国のスダク市において、地元のウクライナ愛国者たちがウクライナ軍第36旅団の海兵4名が、ドネツィク州パウロピリで死亡したことへの追悼の意を込めて、ウクライナ国旗を掲げている。2018年12月17日には、クリミアのフォロスにて、露の人質となった24名のウクライナ海軍軍人のためにウクライナ国旗を広げた。

8月23日、ウクライナ全土で何千何万の自由と独立の国の旗が広げられる。国は、今も戦い、自らの未来を建設し、過去の帝国から民主的欧州国家コミュニティへと進むことを希求している。なお、そのコミュニティ(EU)のシンボルも、何の偶然か、青と黄の組み合わせなのだ。

オレクサンドル・ヴォリンシキー、キーウ


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