なぜウクライナとクリミアは、互いの声を23年間聞かなかったのか?

なぜウクライナとクリミアは、互いの声を23年間聞かなかったのか?

ウクルインフォルム
最初は、それは対立を避けるためだった。その後、それは私腹を肥やすためとなった。これを正していくのは、簡単であり、困難である…。

2014年の占領には、外からの原因だけでなく、内からのものもある。「クリミアを失った責任は、部分的にウクライナの政権とエリートにもある」という、全く不快だが、よく裏付けされた事実を、私たちが認められれば、クリミアを取り戻すための手段も考えやすくなる。そのためには、言葉だけではなく、行動を要する。「クリミアは意図的に明け渡されたのだ」、「2014年3月の血塗られたトゥルチーノウ神父(当時大統領代行)等の決断不足のせいだ」といった、プロパガンダ、あるいは、「裏切り者」探しの病理は止めよう。あの時、国が生きのびたこと、政権の各機関・国防関係機関がどのような状況にあったかを思い出そう。今になって「あのポストにあの人物を据えるべきだった」「反テロ作戦は他のやり方で始めるべきだった」というような総括をすることは簡単である。しかし、歴史に「もしも」はない。認めるのは苦しいが、クリミア占領の状況は、私たちが有す現実である。

90年代にさかのぼる問題

原因を、より深く理解しなければならない。その道は、少なくとも1991年にまでさかのぼる。明白な事実を理解したければ、さらにさかのぼってもいい。(編集注:クリミアのロシアからウクライナへの移管が行われた)1954年以降、クリミア州(ソ連崩壊直前の数か月には「自治権」を得た)は、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国においても、それ以前のロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国を構成していた時代と比べて、実質的な変化はなかった。強いて言うなれば、ウクライナ語とウクライナ文学が学校教育の義務となり(ただし、これら教科の教育水準とそれへの評価については黙っておこう)共産党の拡声器である「クリミアの真実」(なお現在は、プーチンの拡声器)のウクライナ語版が追加的に印刷されるようになったくらいである(この新聞がキオスクで買われることはなかったが)。

つまり、クリミアでは、非常におそろしい「ウクライナ化」なるものは、実際にはソ連時代にも全くなかったのである。その説明として、その当時、全土ではロシア語が(実質的な)国家語であり、さらにクリミアの60%の住民が民族的ロシア人であると言われていた。そして、そのような地域はウクライナではクリミアだけであった。

そして、ソ連邦が崩壊した際、そのことが意味を持ち始める。その時、一般人だけでなく、共産党の幹部から産業界エリートまでが、「社会主義」と別れる準備はできていなかった。「一般市民が物事を決める」民主主義に移行することには、もっと準備がなかった。そして、1991年に、この現実が最も鮮烈に現れたのが、クリミアにおいてだったのである。クリミアの共産党幹部は、非常に考え込まれた設問による、クリミアの自治ステータスの回復に関する住民投票を行うことで、「民主化の波」をコントロールすることにする。なお、現在、クリミアの「政権」にいる裏切り者を中心に(彼らの一部は、当時、『選挙委員会』やら『共和国運動』やら『連邦支持』やらの組織の中にいたものである)、「私たちは、後の『自分達のクリミア』回帰に利用できるように、あの時わざとひねった設問による住民投票をしたのだ」と述べるのが流行っている。ただし、それは事実ではない。あの時点では、誰も、将来何が起こるかなどわからなかったのだから。

その時(1991年)、クリミアの住民は、住民投票という民主的な手段で決定を下した。クリミアの自治権回復に賛成した者は、93%以上であった。これに対し、「ソヴィエト連邦を刷新した形で維持する」ことに賛成した者は約80%であった。ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の最高会議は、この住民投票の結果を受け、ウクライナの中でクリミアの自治権を回復し、憲法を改正したのである。これは、クリミアとロシアの幹部の一部が予想していなかったことであった。そして、これに関して、クリミアでは大きな抗議は起きなかった。1991年8月から12月の間、つまり、同年8月のモスクワでのクーデター、ウクライナの独立宣言、12月1日のウクライナ独立に関する住民投票に向けた準備までの間、クリミアは比較的平穏だったのである。そして、1991年12月1日の住民投票では、54%のクリミア住民がウクライナの独立を民主的に支持したのである。

民主主義の結果が、キーウ(キエフ)とシンフェローポリに、注意深く行動させ、対立の激化を回避させ、地域の平和を維持したのである。他方で、それは、どちらが先にしびれを切らすか、という類の状態であった。生産的な行動を決定するのではなく、双方が耐え忍ぶ状態であり、これにより、クリミアとウクライナは共存の基盤を建設することが不可能となってしまった。90年代の初頭のことである。これが、作られた相互不理解である。この不理解は、どのようなもので、どのように闘うべきであろうか。

その時、不足していたのは何か、一貫性か、金か、意思か?

ウクライナ政権とウクライナ社会は、現在クリミアの話をする際、何を覚えておかなければならないだろうか。ウクライナが、90年代前半にクリミアのために多くの妥協をしたのは、周知のことである。当時のクリミアに、「クリミア共和国運動」やら「ロシアン・ブロック」やらが存在していた事実が、これを裏づけしている。ウクライナがクリミアに対して妥協していた理由は、モルドバとの国境地域のトランスニストリア地方にて、紛争が発生した様子を見ていたからであり、ナゴルノ・カラバフ(アゼルバイジャン)やアブハジアや南オセチア(ジョージア)の問題が現実となり、チェチェンがあらゆる旧ソ連国家にとっての悪夢となっていたからである。クリミアの人口がアブハジアの8倍であることを考慮すれば、紛争が起きたときにどうなるかは想像に容易い。クリミア・タタール人が歴史的ふるさとへ帰還したことで、「イスラム・ファクター」が生じたこともある。このため、ウクライナ中央政権が妥協を行い、メシコフ「クリミア共和国大統領」とすら協力を試みたのは、血と銃撃を回避するためであった。

しかし、銃撃は生じた。ただし、それは(分離主義とは)異なる形の「ギャングの銃撃」であり、クリミアに新たな政治的現実を生み出すものであった。その時、クリミアにロシア通貨のルーブル圏を導入する話や、「何かあったら、皆ロシアへ」と言う類のほのめかしが飛び交うようになった。しかし、実際にクリミアで行われていたのは権力と影響力が再分割であり、「ルーブル圏」の話も、「ロシア回帰」の話も、実際にはギャング同士による権力・影響力の分割やりとりを覆い隠すためのものであるのは明らかであった。そして、中央政権では、皆がウクライナ法空間の状況をコントロールしようとしたため、特殊部隊を用いて、正しく行動し、メシコフ「クリミア大統領」、「ロシア・ブロック」、「ツェコフ・クリミア最高会議議長」等(の分離主義勢力)を皆、エレガントかつ、ほぼ力の行使なく、排除したのである。

しかしながら、このクリミアのギャングの排除後に、ウクライナの政権とエリートは、致命的な過ちを犯してしまう。なお、この時の過ちが2014年に爆発したのである。ウクライナ中央政権は、せっかく分離主義と武力紛争の脅威を回避したのに、その後、自分たちの間でクリミア資産と影響力の分割を始めたのである。90年代前半にギャング達が持っていた資産を今度は自分たちの間で分け合ったのである。当時クリミアの資産を何も受け取ったことのない最高会議議員を見つけるのは困難なほどである。私は、90年代前半にミスホルとハスプラの子供向けリゾート施設に訪れていたが、そこを約10年ぶりに訪れたら、別荘が立ち並んでいて驚いた。これらは、今では宮殿やお城のようになっており、高い塀と監視カメラを備えている。これはクリミア占領よりずっと前の話である。

このようにして、クリミア住民の間に、薄汚れたエリートのイメージが生まれたのである。90年代初頭の犯罪的環境を背景に生まれたクリミアのエリート、そして同様の環境で生まれたウクライナのエリートが妥協している…このような「ウクライナ国家」のイメージが、クリミア住民の意識の中に焼きついてしまったのである。実際には、クリミア住民は、国からの節度あるアプローチを必要としていたのである。クリミアの住民は、これに対し、「サバイバル」というスローガンを用いながら、支援なく、格安の条件でリゾートを提供し続けたのである。

クリミアの住民は、エリート連合に誘われなかったと思ったのである。誘われれば喜んで加わったであろうが、彼らは呼ばれることなく、そのために苛立ったのである。彼らの低い生活水準が、政治に反映されていく。これが「爆発物」となる。最初は共産党と地域党への支持に繋がり、2014年には「ふるさとクリミア」への支持となったのである。

クリミア・タタール・ファクターが示したこと

1991年から2014年の23年間、キーウとシンフェローポリの関係には、常にクリミア・タタール・ファクターが特別な意味を持っていた。共産党の全体主義体制における最後の犠牲者である、追放された民たちが、自らの故郷へ帰ってきたのである。当然、自分たちの将来には独自の見解を持っている。ウクライナの中央政権と、クリミア・タタール民族代表機関「メジュリス」が、共通した一貫性ある立場を取ることができなかったことは、指摘しておかなければならない。なぜなら、クリミア・タタール人が1992年に民族会議「クルルタイ」で宣言した目的は「ウクライナ領内でのクリミア・タタールの国家性の回復」だったからであり、これはキーウの政権にとっては、かつてのメシコフ「大統領」達の分離主義と寸分違わないように思えたからである。中央政権側の愛国心は理解できるものであった。それはクリミア・タタール問題におけるウクライナの政策の中核となった。そして、それは、クリミアにおける中央政権の立場を強めることにはならなかったのである。

ウクライナの大統領たちとクリミア・タタール人指導者たちとの政治対話は、約束と妥協を繰り返した。政治的には、メジュリスは、民族主義・民主主義的勢力との協力という道をとった。最初は、「人民ルーフ」と、その後よりプラグマティックな、ユシチェンコ元大統領の「我々のウクライナ党」と協力した。ヤヌコーヴィチ時代には、民族間の分断が行われ、メジュリスは民族の最も主要な代表的役割を失っていた。

Учасники мітингу на підтримку територіальної цілісності України навпроти будівлі ВР АРК. Сімферополь, 26 лютого 2014 року

2014年2月末の分離主義脅威が表れた際、クリミア・タタール人は、もしかしたら、唯一、占領と併合に真に抵抗した人々かもしれない。しかし、勢力差は大きかった。そして、ウクライナ中央政権は、彼らを支援するには遠すぎた。

答えは出ないのだが、もし仮に、ウクライナ国内にクリミア・タタール人の国家性実現というアイデアが、例えば、自治という形で、2014年までに実現されていたならば、併合は生じなかったであろうか?2014年の春、クリミア・タタール人以外に、ウクライナの同盟相手は他にいなかったのである。このことは、将来について真剣に考えるきっかけとなるものである。それは、歴史的正義の発露というだけでなく、ウクライナが犯罪的に侵攻されたクリミアを自らのコントロールに戻す上で、世界での自らの立場を決定的に強化するものとなろう。

我々は、どのようにクリミアを取り戻すのか?

クリミアについて、ウクライナは何に期待ができるであろうか。これまでウクライナでは、クリミア全体と住民にとっての現実的でプラグマティックな発展計画の実現をはじめた指導者がいなかった。野心的な目的が定められ、必要な投資が投入されなければならない。サクセス・ストーリーが生じれば、地域と国家が強固に結び付けられ、自治を通じて、さらに生活が改善されることであろう。

かつてのウクライナのエリートが、クリミアを「ウクライナ」の象徴にするのではなく、「住民への無関心」の象徴と化してしまったことは、認めなければならない。このことは、ロシアによる占領や、クリミア住民の一部の裏切りをもってしても、正当化できるものではない。無責任なエリートは国家を非常に悲しい結末に追いやる、という教訓をウクライナ人はよく学ばなければならない。

今、何をすべきか。今から現実的なプロジェクトを作り、それを通じて、クリミアが返還されたときにクリミア住民の生活がよくなる、新しい可能性が開けるようにするのである。その地に住む全ての民族にとって、何よりもまず先住民にとっての、よりよい生活のためのプロジェクトを準備しなければならない。

ヴィクトル・チョパ、キーウ


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