自由だから幸せなヘルソン

自由だから幸せなヘルソン

ウクルインフォルム
ロシア軍から解放されたヘルソン市の住民が、現地を訪れたウクルインフォルムの記者に、占領当時の様子とウクライナ軍が到着した時の気持ちについて語った。

執筆:アラ・ミロシニチェンコ(ミコライウ〜ヘルソン)

撮影:アラ・ミロシニチェンコ、ニーナ・リャショノク、オレクサンドラ・コルニャコヴァ

戦争が始まるまでなら、ミコライウからヘルソンまでは、良い道なら1時間ちょっとで辿り着けた。それが今は、2倍の時間がかかる。しかし、そんなことは大したことではない。私たちは、ロシア占領者からつい最近解放された町へ向かう。

近くのミコライウからの長い道のり

主要幹線のかなりの部分は通れなくなくなっていた。まだ地雷除去班が作業しているために、裏道を通らざるを得なくなっている。ただし、裏道でも特別なものは見つかった。戦争で破壊された村々の道で、人々がウクライナの国旗などのシンボルなどを手に私たちを歓迎するために建物から出てくるのだ。涙の出るほど心を打たれた。同時にここでは、敵の「飛来」の跡があちこちに見られる。崩壊した民家、砲弾破片で砕け散った塀、長らく持ち主の入っていない雑草の生い茂った畑を目にしては、心が痛んだ。パプリカが点滴灌漑を使って丁寧に育てられているにもかかわらず、数ヘクタールにわたり収穫されていない様子を見るのは、本当に悲壮だ。ここではたっぷり実っているのに、今年の秋、ウクライナの町々の食卓には届かなかった赤や黄のパプリカ。これらは、農家たちがロシアの「解放者」の死の手錠から逃れるために、自分の家や農場をある日突然離れざるを得なかったことを改めて想像させられる。

そのようにして、私たちはようやくヘルソン市に入った。幸運なことに、町は占領中に大きな破壊は被っていない。ただし、モスクワ人たちの活動の薄汚い痕跡は十分に見られる。人々は、重要インフラ施設を破壊し、町を電力、水、通信のない状態にしてから、町を去っている。

ウクライナ軍が解放することを一瞬たりとも疑わなかった

前線に位置することから、安全のための様々なルールがあるのだが、それでも市の中央広場には、ロシア占領者からの故郷の解放を祝うために出てきた人々であふれている。多くの人が青と黄の旗やその他のウクライナのシンボルを手にしては、歌い、喜び、抱きしめ合い、「ウクライナ軍!ウクライナ軍!」「ヘルソンはウクライナだ!」と叫んでいる。この日は、ヴォロディーミル・ゼレンシキー・ウクライナ大統領という特別なゲストが彼らのところに来ていた。彼は、自らの手でウクライナ国旗を人々の頭上に掲げるべく、解放された町を訪れたのだ。

国歌が響きわたると、ヘルソン市民は8か月という長い占領の中で募った気持ちを抑えられないようであった…。彼らは、ウクライナの戦士たちを待ち望みながら過ごした日々を記憶している。大半の人がその日が来ることを全く疑っていなかったという。

首都からの代表団が広場を立ち去った後も、ヘルソン市民は解散したがらなかった。広場には、移動式の携帯通信局が設置されており、人々は親族や友人に電話がかけられ、無事なこと、自由になったことを伝えられるようになっていた。ある男性が記者のところに近寄り、家族が向かったドイツへと電話をかけさせて欲しいとお願いしていた。人々が解放されたヘルソンから初めて誰かに電話をかけている。その姿が他の人たちの心を打っていた。

ヘルソン市民は概ね誰もとてもオープンで、占領当時の生活について話してくれた。彼らは、電気、水、通信、暖房がもう過去1週間ないというが、しかし、誇張なく、皆が幸せだと述べていた。

市内の学校で物理と天文学を教えている教師のオリハ・ナビトさんを紹介しよう。彼女には、2人の子供がいるが、彼女の家族は町を離れず、町がウクライナのものとなることを一瞬たりとも疑っていなかったという。

ナビトさんは、「最初、私たちは、それ(編集注:町の解放)がヘルソンのファシストからの解放の日である3月13日になると思って、待っていた。そのあとは、5月9日(編集注:対独戦勝記念日)に期待していた。それから、8月に前線が活発化したのを見て、そろそろだ…と思っていた。その頃は、新しい日付として、10月14日を自分たちのために『予定』していた。しかし、実際に解放が実現してみたら、それを信じることすらできなかった。私たちは、もう3日間ずっと興奮状態にある」と伝えた。

彼女は、占領者たちは教育関係者に激しく圧力をかけていたと述べる。彼らは最初、お金で教育関係者を買収しようとしたが、それがうまくいかないことがわかると、今度は脅迫し始めたという。「子供を連れて行くと言っていた。そのため、私は、自分の子供を隠さなければならなかった。夫はほとんど家を出なかった。なぜなら、彼らが常に活動家を探していたからだ。私もマルシュルートゥカから何度か降ろされ、尋問され、地下室に連れて行くとか暴力を振るうとか言われて脅された…。彼らはウクライナ語に対して極めて否定的に反応した。しかし、私たちは、ウクライナ軍のことを信じていたし、軍が私たちを解放することは一瞬たりとも疑わなかった。彼らには、心から感謝している」とナビトさんは伝えた。

また彼女は、お店に食べ物はあったが、それはロシア製の物で、値段も高かったと述べた。そして、ウクライナ政権は、教育関係者を支え続け、占領下でも給料を払い続けていたという。そのため、ナビトさんたちは、買い物の時には主にフリヴニャで支払いをするよう心掛けていたという。ロシアの占領が一時的なものだと信じていた人々のおかげで、市内では各種支払い用のターミナルも機能していたという。

ナビトさんは、自分の家族は一度も(編集注:ロシア兵が配る)「人道物資」を取りには行かなかったと述べた。同時に彼女は、多くのヘルソン市民がロシア人からの物資を巡って長い列を作っていたのを見ては心を痛めていたとも伝えた。ただし、彼女は、確かにヘルソン市には「ロシアの世界」が永遠に続くと思い込んでいた人もいるにはいたが、物資をもらう人の中には本当に食べ物がない人もいたとし、誰もその人たちへの非難は急いでいないと説明した。

またナビトさんは、「私の個人的な観察では、『ロシアの世界』の支持者の中には、貧しい人、あるいは借金を抱えている人や、反社会的な生活をしている人もいた。私たちは、彼らを『ゴキブリ』と呼んでいた。そして、私たちの青年たち(ウクライナ軍人)が彼らを追い払ってくれた。ただし、皆ではない。まだ多くの人が残っている。彼らは穴蔵に隠れている」と指摘した。

さらに彼女は、子供の親たちが子供をロシア領へと休養に行かせるよう提案され、多くの親がそれに同意していたと伝えた。ただし、バスに無理矢理子供たちが押し込められるということはなかったという。親の中には、子供が出生証明書の原本を持っていないといけないということを警戒すらしない者もいたという。そして、その子供たちは今も戻ってきていない。

市街戦を恐れて避難した者もいる

彼女はアラだ。彼女は市の職業安定所の職員だ。アラ氏は、占領下で、一人で仕事のないまま過ごしていたと明かした。また彼女は、ヘルソン市民の中には市街戦や激しい砲撃の可能性の話に怯えて、「自発的」避難に同意していた者もいたとし、人々はプロパガンダの影響を受けていたのだと説明した。避難した人たちの中には、避難したことを後悔しており、戻りたがっている者もいるというが、しかし、今は(編集注:ロシア支配地から)戻ることは認められていないという。

アラ氏は、「私は、避難した人たちが児童用キャンプやらシンフェローポリ(クリミア)やアナパ(ロシア領)の保養所に送られたことを知っている。春までだと言われていたり、その後、いくらかのお金とともにサハリンへ連れて行かれることも約束されたりしていた。ロシア人は、あそこでもう、居住証明書だけで(ロシア)国籍証明書を発行している。実際のところは、強制的避難というのがなかったことは言いたい。つまり、人々がバスに無理矢理押し込められたわけではない。単に人々は怯えていたのであり、様々な情報がある中で、何を信じて良いかわからなくなっていたのだ」と説明した。

同時に、アラ氏自身は、ヘルソンがまたウクライナになることは一瞬たりとも疑わなかったという。市民の避難が発表された時は、多くの人がそれを占領の終わりだと評価したとも伝えた。また同氏は、ロシア兵は夜中の撤退時、人々が情報のやりとりをできないようにするために、通信にジャミングをかけたが、しかし市民は、軍用機の轟音からでも全てを理解していたと指摘した。

アラ氏は、「オークたち(編集注:ロシア兵の蔑称)は、傍若無人に振る舞っていたし、私たちのことを常に検査していた。私は、週に2回は携帯電話のデータを消していた。なぜなら、彼らがその情報に注意を向けていたからだ。彼らは私たちの『ジーヤ』(編集注:ウクライナ官製アプリ)や、フェイスブック、ヴァイバーを非常に嫌っていたし、もしそれを見かけたら、削除を強制していた。検問所では、男性は服を脱がされ、タトゥーを探されていた。人によっては、キャッシュカードにお金を見つけられ、送金を強制されていたし、貴重品を取られることもあった。例えばノートパソコンだ。概して、彼らがいる間は、私たちは中世の水準に戻ったようだった。市内では、あちこちでお酒が売られていて、子供たちにも制限なくアルコールやタバコが売られていた。誰もコントロールしていなかったし、『政権』は機能していなかった。しかし、公共業者が活動していたことは指摘しないといけない。ゴミは集められていたし、水も電気もあった」と発言した。

私は、背の低い若い女性のところに近寄った。彼女は、ウクライナ国旗を身につけて立っていて、感情に溢れているようだった。彼女の名前は、ジアーナ。彼女はIT分野で働いている。ジアーナ氏は、「過去3日間、私はほとんど寝ていないし、何も食べていない…。そのテロルが終わったこと、それを私たちが乗り越えたこと、それが終わったことを信じることが難しいのだ。私は、毎日ここ、(町の)中心へ来て、人々と話して、喜びたいと思っている。私たちは、夫とも、両親とも、友達ともここに来た。まだここへ連れてきていないのは、うちの猫だけだ」と微笑んだ。

ジアーナ氏は、占領下の生活がどれほど恐ろしく、苦しかったかを語った。彼女は、人々は家を出る時には、必要なものを買うだけのお金しか持たないようにしていたと伝えた。なぜなら、奪われる可能性があったし、奪われても誰にも訴えることはできなかったからだ。警察を呼んでも、来るのはオーク(ロシア兵)だったという。

自由の中で育つために生まれた子供

ヘルソン市の中央広場の多くの色とりどり人の中に、若い夫婦を見つけた。二人とも笑顔で、ウクライナのシンボルを身につけ、乳母車を押していた。二人は、オレクサンドルとアンナという。9月29日、彼らは女の子を産んだ。今日、彼らは、皆の喜びの雰囲気を感じるためにここへ子供と来たという。なぜなら、今もまだ、子供がウクライナのヘルソンで育っていくということを信じることができないからだという。

アンナ氏は、「私は、ヘルソン解放の爆発音の中で子供を産むのだと思っていた。最初は、娘を『ヴィクトリヤ』と名付けたかったけれど、大きな爆発音が聞こえた夜に、『ヴェロニカ』と名付けることに決めた。その名は、翻訳すると『勝利をもたらす』という意味になる。そして、その通りになったのだ!」と伝えた。

オレクサンドル氏は、「私たちの人々がウクライナの国旗を持ってヘルソンを自由に歩いているという場面は、過去数か月の最も鮮やかな印象を与えている。信じられないことだ。このような気持ちは言葉では表せない。私は、涙を流すことすら恥ずかしくなかった。今、私の両親は、被占領下、左岸にいる。私たちは、彼らのことをとても心配しているが、すぐに解放されることの希望もある」と発言した。

彼はまた、人々が行方不明になった事例や、侵略者が若い青年を銃殺した出来事を知っていると述べた。また、軍とは何の関係もなかった知り合いの父親のところに、銃を持ってきた人々がやってきて、彼を家から連れ去った後、今でもその行方はわからないのだという。

さらに、「私たちは、通りにはむやみに出ないようにしていた。(偽)『住民投票』にも行かなかった。しかし、多くの人のところにオークが家までやってきて、誰がどこに住んでいるかをメモしたり、空いているアパートを探して、住み着いたりしていたのは知っている」と述べる。

人々は喜びと笑顔に満ちあふれ、しかし、今後長く、占領の苦しい時期を思い出していくのだろう。アリョーナ氏は、布地を売るお店を経営している。彼女は、占領の間もずっと仕事をしようとしていたとし、何とか生き延びるために色々な物を売っていたと述べる。ロシア人は、常に圧力をかけ、お店の再登録を強制してきたが、彼女は耐え切ったという。アリョーナ氏は、占領初期には、仲間と共に市の中心部へとデモに参加しに行っていたとし、毎日市の中心地へ来ては、自らの市民としての立場を表明し、ヘルソンはこれまでも今後もずっとウクライナだと主張していたと伝えた。同氏はまた、「オークたちは、初めは私たちがここ、中央広場に来ると、私たちのことを観察していたが、その後追い返し始めるようになった。閃光弾を投げたり、催涙ガスを放ったり、足元を撃ったりしていた。私たちは、(市内の)シェウチェンコ公園へ移動した。しかし、そこからも逃げなければならなかった。なぜなら、すでに武装した兵士たちを乗せた車が待ち構えて、抗議者を捕まえていたからだ。集会へ行く度に、家に帰れるかどうかの確信がなかった。しかし、それ以外の行動は取りようがなかったのだ」と当時の様子を伝えた。

アリョーナ氏の友人のオレーナ氏は、ロシア人が活動家を地下に閉じ込めた事例について話した。「私たちの同僚は地下に25日間閉じ込められていた。彼女は、殴られ、拷問を受け、数回にわたり、頭にずた袋をかぶせられて処刑場に連れて行かれたという。しかし、最終的にはビロゼルカへと連れて行かれた後に、解放された。彼女は、他の解放された人々と歩いて家まで戻った。しかし、皆がそのように運が良かったわけではない。自宅や家で拘束され、殴られ、その後行方のわからなくなった活動家がいるし、彼らの一部は今もどうなったのかわかっていない。思うに、ここでは、今後あらゆることについての情報が出てくることだろう」と述べ、ため息をついた。

ヘルソン市民のほぼ誰もが、恐怖の中でも、互いに助け合ってきたし、今も助け合っていると述べる。戦争初期、負傷者のために献血や物資が必要になった時は、ヘルソン中が献血へ向かい、病院全体が物に溢れかえっていたという。今、市内には水も電気もない。地下水を汲み上げられる人々が、皆に無料で水を配っているし、発電機を持っている人は、通りに電源タップとともに持ってきて、人々が携帯電話やその他の機器を充電できるようにしている。

地元住民のアナスタシヤ氏は、「この町の人々は、常にオークを無視してきた。彼らが喫茶店やお店に入ってきたら、ヘルソン市民は皆、わざとらしくお店を立ち去っていたし、彼らが路面電車に身分証明書の確認のために乗り込んできたら、皆そっぽを向いていた」と伝える。

これら全ての話は、彼らが耐え抜くことのできたことの些細な一部に過ぎない。占領を経験した一人一人の市民に、自分の物語がある。しかし、彼らは皆、自由で独立したウクライナで生きたいという願望でまとまっている。

なお、私たちは、ヘルソン市を出る時に、郊外に立つこの不屈の市の名前を象ったモニュメントを背景に写真を撮ろうと、車を止めた。すると突然、すぐ近くで爆発音が鳴り、私たちは急いでその場を去らなければならなくなった。それは、戦争がまだ続いていること、完全勝利まではまだ多くの仕事がこの先に待ち構えていることを、今一度思い出させる出来事だった。


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