ロシア人捕虜収容所訪問 彼らは後悔しているのだろうか

ロシア人捕虜収容所訪問 彼らは後悔しているのだろうか

ウクルインフォルム
ウクルインフォルムの記者は、収容所「ザーヒド2」で1日を過ごした。

執筆:ラナ・サモフヴァロヴァ(ポジッリャ〜キーウ)

写真:パウロ・バフムート

「次のロシアの大統領選挙では、誰に投票しますか?」

「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ(プーチン)です。彼は秩序をもたらし、混乱を一掃しました…。」

「あなたは、以前同様、私たちのことを『1つの民』だと思っていますか?」

「ええ、私たちは兄弟のスラヴ人です。」

「あなたはここで、一度でも殴られましたか?」

「いいえ。」

「あなたの同郷人は、最近、私たちの負傷した捕虜7人を殺しました。その事実からあなたは何を感じますか?」

「私はもう長らく何も感じていません。家へ帰りたい…。」

「あなたの国の政権が、あなたを交換しないのはどうしてだと思いますか?」

「おそらく、私たちは必要ないのでしょう。しかし、私たちも交換されることを信じています…。」

ここはロシア人捕虜の収容所「ザーヒド2」であり、私は割り当てられた15分間で露クルスク出身の、アウジーウカ近郊で拘束された契約兵と話をした。そのやりとりは収容所事務所の部屋で行われ、私たちの出張の最後の段階になって、見学の他に、数人のロシア人と話す許可が与えられた。

そこへ辿り着く前に、私たちは、電話と身分証明書を入り口のそばで預けた。収容所所長の個人的要請で、機密性を最大限維持するためだという。戦闘圏への訪問の際にも、私たちはよく電話を「機内モード」に設定する。ここは前線ではなく、後衛なのだが、しかし、「ザーヒド2」のような捕虜のための全ての収容所は、注意深く警護・防衛されている。彼らを、主にロシアのミサイルから守らねばならないからだ。彼らは、ロシア政権にはあまり必要ではないため、ロシアのファシストにとって必要のない(捕虜)交換基金として、処分が試みられる可能性がある。それでも、家族が彼らを必要とし、それでも彼らが解放を求めるという希望はある。というのも、ロシア社会の要求こそが、止められている解放プロセスを再開させる可能性があるからだ。自らの息子、夫を帰国させたがっており、(捕虜)交換を要求するロシアの女性、母、配偶者への私たちの治安関係者からの訴えかけが、私たちが進む道であるし、私たちの目的は捕虜家族との連携にある。

そのため、治安機関も、収容所幹部も、ウクライナ全土に散らばる収容所の何百人ものロシア人を何とか「個人」として扱い、家族と連絡させ、ウクライナの町々への襲撃のための「肉」から、ロシア政権幹部の目にとって、信じて戦い、今では家に帰りたがっていて、交換の対象となる、そういう人々に変えようとしているわけだ。私たちは、ロシア人捕虜の配偶者、イリーナ・クリニナ氏と一緒にここへ来た。彼女は、ロシアの女性へと電話をかけ、彼らと捕虜の親族と連絡させる仲介役となる人物だ。私たちの「見学」の最初の部分は共同のものだった。


補足:ロシアの家族のためには、プロジェクト「見つけたい」がある。それは、行方不明になった自らの夫を探すのを支援するものだ。 しかし、軍人自体もまた、自らのためにこの戦争を止めて、投降することができる。そのためには、プロジェクト「生きたい」がある。


私たちは、イリーナとは個人的に知り合った(以前、ウクルインフォルムで彼女のプロジェクトのプレゼンテーションがあり、ニュースで知ったのだ)。私たちは、ロシアにも自分の夫を、自動車と交換するのではなく、探して、待つ妻がいるというのは嬉しいと伝える。

イリーナは、「ええ、私たちはそういう人です」と同意する。

法執行機関職員が自動車のトランクを開けて、捕虜のために渡す大きなかばんを見せる。つまり、自分の父親、息子、夫を家に戻らせるべく闘う準備のあるこの女性たちは、彼らに、缶詰、ポテトチップス、ウォッカ、コーラ、さらには励ましを伝えるような小物のような物も渡すことができる。

私たちは、収容所のきれいに掃除された敷地にいる。ここは、散歩のための広場、寮(バラック)、個別の台所と食堂、チャペル、浴場・洗濯場、それから作業場、ボイラー室のある、小さな町である。

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」 寮

ここは、数十年にわたり刑事犯罪者の流刑地だった場所が捕虜のために収容所に改修されたもので、現在ここには具体的課題のためにあらゆる設備が整えられている。課題とは、被拘束者の生活と労働を組織化し、彼らの拘束条件を確認しに来る多くの国際委員会が、最低でもウクライナに対してクレームを抱くことのないよう、あるいは最大では、ロシアに対して今拘束しているウクライナ人被拘束者のために同様の条件を飲ませる、というものである。

私たちは、バラックのある敷地に入る。それらの中は、大きな部屋と二段ベッドがあり、むしろ寮を思わせる。廊下の壁には、いくつかの掲示がある。最初のものは、苦情を送るためのQRコードがついたウクライナ最高会議人権問題全権の調整担当の情報、ロシア語で被拘束者の残酷な扱いは看過し得ない、彼らの外見上の障害をからかうことも許されないという警告だ。また、各被拘束者個人口座に割り当てられる機関の口座番号もあり、ここには被拘束者の収入が振り込まれる(これは、ジュネーブ条約の要件で、被拘束者は約12スイスフランに相当する額を受け取れなければならず、ロシア軍人は毎月300フリヴニャを受け取り、お金は彼らの個人口座に入り、彼らはそれでタバコや食料品を購入するための申請書を書くことができる。ちなみに、被拘束者は、1日に6回喫煙の権利がある)。

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」

バラックの前で被拘束者を見つけた。目を伏せている者もいれば、私たちを露骨な好奇心で見ている者もいる。私は彼らを見ている。ロシアのこういうコピーを見て、あなた方に見せることが、記事の課題なのだが、私にとっては、詩人レルモントフが書いたように「奴隷の国、主人の国」に支える殺人者ではなく、彼らの中に人間性を見るというのは、極めて困難な仕事に思える。そして、私は、青い衣服をきたその「ロシア」を見ている。ヤクート人、朝鮮人、何らかの欧州的特徴を持つ黒髪の人。彼らは様々だ。背の低い者もいれば、高い者もいる。怪我が治っておらず、杖をついている者もいる。

ロシア人捕虜
ロシア人捕虜

記憶は、私たちが毎日公開している大戦争(編集注:現在の露宇全面戦争のこと)で亡くなった英雄について書く、「ありがたいことに」ウクルインフォルムの特集「1分間の黙祷」の内容を思い出すことができるため、私は、この者たちの中に私たちの誰かを殺した者がいるかもしれないと考えている…。

「起床は6時、トイレ、朝ごはん、それから全員がウクライナ全土のラジオで流される『1分間の黙祷』を行う」と収容所の所長が説明する。(収容所の職員については写真を撮ることも、名前を伝えることも許されていない。)

バラックを眺める。私は枕元の棚に置かれていた本を手にする。収容所には、ロシア語の本がたくさんある。被拘束者のロシア人の棚には、主にゴールズワージー、ディケンス、カスタネダといった翻訳作品が置かれている。そして何と、正教の「祈祷書」「長老たちの生活」や、正しい断食の手引きまである。これが、ロシアの古典が驚き、ロシアの「道徳」の断絶と呼称したものと、どうやったら共鳴するのだろうか。祈りのために額を打ち付け、イコンの前にひざまづきながら、ここ(ウクライナ)では、キリスト教にとっての最も醜悪な犯罪である、殺人や強姦を犯すというのか…。

親族と話をするための部屋
親族と話をするための部屋

私たちは、許可を得た者が親族と対話するための部屋が見せられた。ここはIP電話が使われるシンプルなものだ。廊下を進み、テレビのある娯楽室へ向かう(そこではちょうど、ウクライナ保安庁(SBU)のアルテム・デフチャレンコ報道局長が写し出され、私たちの無人水上艇について話していた)。この部屋では、チェスやチェッカーをしても良いし、ここにはイコンもある。

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」 娯楽部屋

次に食堂へ向かう。正しくは、台所だ。被拘束者は、自分でパンを切る。収容所の料理長が説明した話では、彼は、希望者の中から補佐役を選んでいるという。被拘束者の中には、プロの料理人もいれば、料理はこれまでしたことないのに、食べ物の近くにいることを好む者もいるのだそうだ。

訪問の条件として、私たちはインタビューと写真で後ほど記録しても良いことになっていたが、しかし、私たちはここでも被拘束者数名と言葉を交わすことが許された。

カメラのない中で、彼らは対話を行うことに同意し、また自分たちが焼いたパンを味見することを提案した。なお、興味深い話だが、収容所の管理者は、拘束されている敵のために食料を供給する業者がなかなか見つけられなかったそうだ。というのも、以前の供給者が、一定数の注文量が定められていたにもかかわらず、被拘束者のために供給することは断ったのだという。

「あなたの出身は?」私は、20歳のイワンに尋ねる。「コストロマです。」「どうして前線に来たんですか?」「動員されたからです。でも、誰も殺していません。パンを食べてみてください。美味しいですよ。」

断りつつ、私は、彼らがどれだけ良い待遇を受けているかを考える。彼らは、攻撃的な乱暴さを全くもって予想しておらず、当然あるはずの言葉による攻撃性さえ予期していないのだ。だから、パンを食べるよう勧めてくる。私たちのパンを。

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」 食堂・台所

私は、前の男性より高齢の被拘束者が薄暗い部屋の中でパンを切っているのを見かける。

「話せますか?」と尋ねると、彼は「ええ」と答え、目を上げる。「50歳です。(サンクト)ペテルブルク出身のエヴゲーニーと言い、技術専門の高等教育を持っています。戦いに来たのは、軍事委員会を買収する資金がなかったからです」と述べる。

彼の声は静かに響いた。

「あなたは、ウクライナで行ったあらゆることで恥ずかしくはないですか?」「恥ずかしいです」「私をまっすぐ見てください、お願いですから」(同行人が、もう私の肩を引っ張っていたが、私は待った。)

彼は、ゆっくり視線を上げて、私を見た。そこには、後悔があった。いや、もしかしたら、私にそう思えただけなのかもしれないが。

先に進む。次は、浴場・洗濯場だ。

1週間に1度、ここでサウナと下着の交換がある。被拘束者は、カーテンの後ろで着替え、汚れた下着やシーツを小窓から渡し、別の小窓から清潔なものを受け取る。シャワーには、5、6のブースがある。

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」 浴場・洗濯場

私は、監獄についての様々な映画を思い出しながら、所長に向かって、被拘束者の間では何らかの上下関係や、はずかしめの試み、一言で言うところの「いじめ」はあるかと尋ねた。返答は、「ない。ここには様々な人間がいるが、しかし一つの目的(被拘束者交換により解放される対象となること)と一つの犯罪で結びついている者たちだ」であった。中庭へ出る。そこには、大型乾燥機で乾燥された後の下着が追加で干されている。下着は、黄色、水色、さらにはピンク、といった色がついたものだ。

礼拝堂へ向かう。収容所所長に、被拘束者たちから礼拝堂を開けるよう頼まれるか、と尋ねると、彼は、週に1回頼まれる、彼らは祈っていると述べる。なお、神父を巡る問題があるという。収容所事務所は、ウクライナ正教会モスクワ聖庁をここへは迎えたがっていないが、(独立)ウクライナ正教会の聖職者を収容所のために見つけることはまだできていないのだという。また、所長は、イスラム教徒の被拘束者のためにコーランも探していると述べた。

礼拝所の隣で、被拘束者たちが掃除をしている。私はまた、彼らと話そうと思い、近付く。

カレリア出身のイヴァンと沿海地方出身のロマン。彼らは、あっけらかんと笑いながら、自分たちは契約兵ではなく、単に動員されただけで、戦争から「抜け出す」手段を知らなかったのだと述べる。彼らが出発の際には、ウクライナ人はパンと塩で出迎えてくれるだろうと言われたという。

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」 礼拝所

彼らは、ウクライナ人に対して憎悪は感じていないと断言する。(しかし、捕虜収容所で彼らには他に何が言えるのだろうか?)私が、あなた方が私たちの大地に来たのであって、私があなた方のところへ来たのではない、と述べると、彼らは、「じゃあ、もしあなたが大統領に戦争へ行けと言われたら、あなたなら何をしますか?」と言う。私は、ウクライナでは大統領が権力の主要な源泉が民であることを忘れ、民との合意に反した場合、その都度、私たちはマイダン(広場)へ出て、その大統領を排除してきた、と返答する。

「私たちのところでは、そんなの無理ですよ」と彼らは述べて、ため息をつく。それが、気が抜けたからなのか、誇りを感じてなのか、私にはわからない。彼らは、不自然なほどに陽気で、私は、彼らを現実に引き戻したくなる。「どうして、あなた方の政権はあなた方を交換しないのですか?」と私は尋ねる。

彼らは、直接の回答を避けながら、「私たちは、交換に期待しています。家には私たちのことを待っている人がいます」と述べる。

私たちは所長室で座り、選ばれた被拘束者との対面の始まりを待っている。話す準備がある者との対面だ。私たちは、気持ちを率直に伝えることのないよう、1分前まで彼らが手を後ろに回された上で廊下に立たされていたことを覚えておくよう頼まれた。私は、ウクライナの従軍聖職者から何度も聞いた言葉を思い出す。「私たちは、戦士たちがドラゴンとの戦いで、自分自身がドラゴンになってしまわないように助けているのです。彼ら1人1人が武器を手にして、ひどい損失を被った場所からやってくる時にも、ドラゴンにならないように。『前のように友達になろう』と話す時に、ドラゴンにならないように。」

ロシア捕虜の収容所「ザーヒド2」 ロシア捕虜との対話

私は、「DPR軍」で戦ったウクライナ人とも話した。かわいらしい男性で、ドネツィク出身のビジネスマンで、当初は占領者を助けるために残り、その後ある時になって、その空想上の領域集団の「軍」に入ったのだという。

彼は、収容所ではウクライナのテレビ番組を「兄弟たち」のためにロシア語に訳してあげたり、本をたくさん読んだりしていると言い、またドネツィクに戻ることを夢見ていると述べる。私は、同じくドネツィク出身で、ホーロー付きのオストロフ聖書を出版することを夢見ていたけれど、この戦争で殺されたオレクサンドルのことを思い出しながら、このもう1人のオレクサンドルに質問する。「もしかしたら、あなたの軽薄なロシアへのシンパシーが、あなたの地方、ドネツィク、ヴフレダル、バフムートを滅ぼしたという恐ろしい過ちについて、あなたが認められないのは、単にあなたが頑固だからではないですか?」

「そうかもしれませんね」と、彼は、極端に短く同意する。

私たちは、ドネツィク出身のオレクサンドルとクルスク出身の熱心なプーチン信奉者と話を始めたが、その後、モスクワ出身者も連れて来られた。いや、「モスクワ出身」と言えるだろうか。彼は、建設業者で、彼の親族の一部はウラル地方にいると言うし、彼は少なくとも、モスクワ居住の1世代目でしかない。そして、彼からもまた2週間しか戦っていないという話を聞く。彼は選挙へは行かないし、ナワリヌイの死もどうでも良いという。そして、ウクライナ人との対話は、当然「信じている」という。

私は、被拘束者たちは自分のことを、ジューコフ(ソ連)元帥の言うところの、次の戦争のために「女たちならまだ産んでくれる」理論の消耗品に過ぎないと感じてはいないか、と尋ねる。反応からして、このアレクサンドルは、もしかしたら、ジューコフが誰かをしらなかったのかもしれない。よって、何と答えるべきかもわからなかったようだ。私たちは、モスクワ人というのをいくらか違う感じで想像していた…。彼らは、考えたくないから考えないのではなく、わからないから考えないのではないか、という印象を覚える。

私は、サンクトペテルブルクのイェヴゲーニーの言葉以外にも、後悔に似た言葉をまだ聞けるだろうか? せめて、彼らの中に、単なる首なし殺人者だけでなく、人となるチャンスがあり得る者だと私が思えるような、何か手がかりはないだろうか。

そこで、最後の被拘束者が連れて来られた。ヴォロネジ出身のヴィクトル。若い、カメラを恐れない30歳未満の男性。

「言われていたのとは全てが違いました。NATOの基地もなければ、ナチス主義者もいない。あなた方が述べている、私たちが行った犯罪は、酷いものです」

Contra spem spero.「希望なく期待する」。もう、はるか昔に誰がその言葉を述べたのかは思い出せない。しかし、レーシャ・ウクラインカ(編集注:ウクライナの詩人)は、それをまた述べたのだった。


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