平野高志 『ウクライナ・ファンブック』著者

日本の情報空間は複雑だが、ロシア政権がフェイクを作り出しているという理解は既にある

平野高志さんは、ウクルインフォルムの日本語版の編集を行い、私たち皆に日本的な仕事熱心さと一貫性について、良い手本を示してくれている。彼がネイティブ・スピーカーがいない大学でウクライナ語を習得したことが重要なのではなく、彼が自分の時間を上手に扱っているところが重要である。なぜなら彼は、リヴィウで日本語を教えながら、並行して修士号を取得し、日本大使館で外交官になりつつ、ツイッターユーザーにもなったのだ。

その後、彼は、記者になったかと思うと、昨年は自身の写真展を開いた(写真は彼の予備的職業だ)。そして、今年、彼は日本でウクライナに関する書籍を出版する。

私たちは、彼が書いた本、ウクライナでの研究の経験について話をした。


タカシ、私には信じられないのです。私の前に座っている素晴らしいウクライナ語を話す日本人が、ロシア語を知らないということを。

私が東京で学生だった時、ロシア語の勉強を延期する必要がありました。ウクライナ語を勉強する時に、ロシア語の語彙や文法と混同してしまうからです。つまり、私はウクライナ語をマスターするまで、ロシア語の勉強再開を延期したのですが、その後、ウクライナ語にはまってしまって、ロシア語に戻るタイミングを逃してしまいました。

ウクライナ人は、日本に関して、いくつかのシンボルをイメージします。日本の庭園、サムライ、寿司、短歌…。あなたも、ウクライナに関して、何かしらのシンボルをイメージしますか?

コサック、ボルシチ、ヴィシヴァンカ…。あるいは、「自由」ですかね。「コサック」の語源は、「自由の人」ですが、この「自由への愛情」は今もウクライナ社会の中に見られると思っています。ところで、今、「サムライ」の話がありましたが、サムライの語源はもともと「仕える人」です。つまり、「サムライ」は「奉仕者」なんですよ!「サムライの党」(編集注:ウクライナの与党「人民奉仕者党」の意)が、この自由を愛する国で勝ったのは、ちょっとしたパラドックスですよね(笑)。ただ、私は、一つの国を何らかのシンボルで説明するのは、あまり好みません。なぜなら、それはステレオタイプを生み出すし、そのステレオタイプを後で取り除くのが大変になるからです。私はいつも、2、3のシンボルよりも何千の言葉で話そうと思っています。話が、ウクライナとか日本とか、私にとって重要なものについてであれば特に。

あなたは前に、ウクライナへの関心は一冊の本を読んだことから始まったと述べていましたね。どのような本だったんですか?

私の父が地理の教師で、色々な本を持っていたのです。その中に、ウクライナが独立してから出版された本がありました。それで、欧州の中心に大きな国があって、そこには多くの人が暮らしていて、言語、伝統、歴史があるということを知り、驚いたことを覚えています。その時、そのような大きな国があるのに、なぜ私はその国のことを知らないのだろう、と思いました。そこには、その国には独自の言語があり、それが今復活している、と書かれていました。子供の頃の私にとって、言語が復活する、ということはすぐには理解できませんでした。なぜなら私は、言語とは、常にあるもの、あり続けるものだと思っていたからです。なぜその言語は復活しているのか?その疑問から、私は「ウクライナ」という言葉で検索したり、人と話したりし始めました。すると、ネット上のある人が、東京の大学でウクライナ語を勉強できるよと教えてくれました。それで、ロシア語の教えられているロシア・東欧課程のある大学に入学し、週に一度の選択授業でウクライナ語を勉強し始めたのです。先生は、ウクライナ語を書籍から学んだ方でした。

日本人にとって、ウクライナ語の勉強は難しいですか?

難しいですね、主に音韻面でです。日本語は、音韻面では割とシンプルな言語ですが、ウクライナ語は反面、音韻面で非常に豊かな言語です。そうすると、私たちは日本語にない音を聞き分けられるようにならなければならないし、発音できるようにならないといけない。それは特訓しないと難しいですね。日本には、2、3のウクライナ語の教科書があります。それから私は、英国から一冊、カセット付きの教科書を買いました。学習のためにラジオ・スヴォボーダや、音楽バンドのオケアン・エリジを聞いたりもしました。大学を卒業してから、ウクライナ語関係の仕事を探しました。東京にはそのような仕事はなかったので、しばらくフリーの写真家として仕事をしていました。その後、ウクライナのリヴィウ国立大学が、日本語教師を募集し始めたので、応募しました。その大学には、毎年30人の学生が新たに日本語を勉強しようと入学しています。私のところには、毎年大体100人ぐらいの学生がいましたね。

ウクライナに来てから、幻滅するようなことはなかったですか?

リヴィウは、素敵な町で、彼らは外からの人を歓迎します。人々の家にしばしば招待されました。私が住んでいたのは、パーシチナ通りの大学寮ですが、そこの生活は面白い経験として受け入れました。温水は、特定の時間にしか出ず、それを待って外国人教師で行列を作ったりしましたが、それも受け入れました。なぜなら、それら全てが子供の頃の夢の実現過程だったのです。私はいつも生のウクライナ語を使ってみたいと思っていたのであり、その時、ようやく毎日ウクライナ語を話せる状況が実現していたからです。私は、その後大学院に入り、毎日課題をこなしたり、長文を書いたりしました。文化的な観点では、私は全く満足していました。でも、ウクライナの教育に関わる実際的な面では、幻滅することもありました。例えば、大学の学生はもともとは真面目な人たちですが、システムが彼らをダメにしてしまうことがあります。教師が授業に遅れたら、学生も遅れて来るようになる。教師が課題をきちんと見なければ、学生はそれをきちんと行なわなくなる。つまり、教師は、授業初日から、学生にとっての模範でありモデルなのです。私は、少なくとも自分の授業では、それを意識して行動しました。それで、3名の学生が奨学金を取って、日本に留学することができました。

あなたは、自分の学生に日本の規則遵守の厳格さを伝えたということですか?

いや、時間を守ること、ですね(笑)

それから、日本大使館で働き始めましたね。外交の仕事は退屈ではなかったですか?

私が大使館で働き始めたのは、2014年1月です。それはマイダンの時だったので、退屈ではなかったですよ。その時、大使館は避難し、プレミアパレス・ホテルでの臨時勤務体制が始まっていました(編集注:在ウクライナ日本国大使館は当時、治安機関側とマイダン抗議者側が対峙する間に位置していた)。ヤヌコーヴィチが逃亡し、クリミアの占領が始まり、東京に情報を適宜伝えるために、私たちは朝から夜まで情報をフォローしていました。ところで当時、日本では、ウクライナの情報をロシアのメディアを通じて得るという、ある種の伝統がありました。当時も、ロシアから引用された情報が日本で多く流れていました。

私はウクライナ語で情報を得られたし、キーウにも多くの友人がおり、ソーシャル・メディアなどで情報を追うなど、多くの情報源を有していました。

マイダン発生の時点で既に、世界ではウクライナの出来事に関する見方をめぐり、ある種の分断が起きていました。私には、(マイダンは)誰かがあらかじめ計画して、裏から操っているという、ロシアのメディアが書くような状況ではないとの認識がありました。私は、オンライン上で人々が、身の守り方を教えあったり、募金の送り先を共有しあったり、どこに行くべきか、どう行動すべきかについてやりとりをしている姿を、自分たちで運動を組織している様子を見てきたからです。日本外務省は、大使館から多くの情報を得ていましたが、同時にそれとは異なる見方のロシア報道発の日本の情報も入っていました。

大使館には4年間勤務しました。その頃、ウクライナの情報政策省が、ウクライナ語と日本語の知識を持つ専門家を探していました。私は、自分の大使館との契約がいずれ終わることを知っていたので、手を挙げたのです。

日本の情報空間は、なかなか複雑です。ロシア発メディアもあるし、親露的専門家もいます。同時に、情報源を多様化すべきという点への理解もあります。また、ロシア政権がフェイクを作り出しているという理解も既に存在します。しかし、当時ウクライナ発の日本語による情報発信源はありませんでした。そのような状況だったからこそ、私がウクルインフォルムで働き始めるということは、理解を持って受け入れられたと思います。多くの人が、ウクライナのことを知りたがっていたのだと思います。それで私はここで、既に1年半働いています。そして、ここで最近ウクライナに関しての本を書き終えたのです。

本の名前は?

『ウクライナ・ファンブック』です。オールカラーの224ページで、私が撮った写真が多く使われています。この本は、半分はガイドブック的内容で旅行の時の助けになるもの、半分は、ウクライナの歴史、言語、伝統、宗教、スポーツなどについて書かれたものです。政治についてはあまり多く書いていません。というのも、この本は読者がウクライナへ行きたくなるよう意図して制作したものなので。ウクライナのことを日本の新聞で知る人たちは、ここでは戦争が起きていると思っています。しかし、私は、ウクライナは安全に旅行できる、物価も高くないし、食べ物もおいしい、ということを伝えたいのです。この本には、人々がウクライナへ行ってみたくなるだけの十分な情報が載っています。出版は日本の出版社がします。当時私は、ツイッターやフェイスブックを使っていて、そこでウクライナ情勢についての知識を失わないように情報収集や発信をしていました。その頃、その出版社に、この本の執筆を提案されたのです。

あなたの本で強調されているのはどのような点ですか?特に何を見ることをアドバイスしますか?日本の観光客にとっては、私たちの何が面白いのでしょうか?

特別なアクセントはないですよ。反対に、今あるウクライナをありのままに見せようと努力しました。圧倒的多数の日本人は、ウクライナのことを何も知らないのです。あるいは、クリミアに注意を向けたとは言えるかもしれません。クリミアの歴史、クリミア・タタールの文化や言語について少し書きましたから。執筆上の課題はシンプルです。私は、マリウポリやアラバト砂州からはじまり、ルーツィクまでの色々な町や場所の写真を見せ、トリピッリャ文化、スキタイ、ルーシ、クリミア・ハン国、コサック社会、ウクライナ革命、ウクライナ人民共和国、クリミア人民共和国、追放、ウクライナ独立までの歴史を書きました。

それから、ウクライナ料理、宗教、民族マイノリティー、ヴィシヴァンカ、ピサンカ、クリスマス、ウクライナ正教会の独立、伝統の中に見られる多神教の名残(ジードゥフやクパーラ祭)、芸術、アイデンティティ、政治や経済の基本的なこと、スポーツについても書きました。

つまり、私は、日本の人たちに、簡潔かつ中立的にウクライナに存在するあらゆることを伝えようとしたのです。この本を読んだ方々が、本を読んだ後に自分で更にウクライナについて調べてみようと思えるように、自分の目でウクライナを見てみたいと思えるように工夫しました。別の言い方をすれば、読者にとって、ウクライナがとても素敵な国だということがわかるよう、発見が生じるように書きました。私のアイデアは、「Ukraїner」がウクライナの人向けにやっているのと似ています。ただ、私はそれを日本の読者向け、日本の需要、傾向、パーセプションを意識して書いたのです。簡単に言えば、ウクライナのことを普及する本ですね。

ウクライナの人々について、あなたが気に入っていること、気に入らないことは何ですか?

気に入っているのは、感情的で素早いリアクションです。それは、あらゆるレベルで起こることで、それが変化の後押しになっており、その結果ウクライナでは全てのことが非常に迅速に変わっていきます。他方、日本には保守的な傾向があります。日本では変化を恐れる人々が多いと思います。私は、ウクライナに10年間住んでおり、1年に1回日本に戻っています。その時何が変わったかなと楽しみに帰るのですが、あちらにはあまり変化がないのですよ。ここでは毎年何かが変わっているのに。ウクライナの変化は、ウクライナ人々の全てを変えたいと思う性格によるものだと思います。ただ、それには肯定的な面の他に、否定的な面もあります。しっかりした計画なしに行動して、物事を変えようとすれば、間違いが生まれかねません。動くこと自体は良いことなのですが、他方で、迅速かつ感情的な動きは「コインの裏側」になり得るものです。何と言ったら良いか(笑)、時々、細部において、彼らを手助けしたくなりますね。

ウクライナの女性について、想像と現実は一致しましたか?

私の周りにいる女性は、ジャーナリストとか、アート関係者とか、市民社会代表者だったりします。女友達は、ソーシャルメディアとかの、私の関心分野出身の人たちなのですが、通りを歩いている普通の女性のことは、私は何もわかりません。私は、ステレオタイプを作らないように、彼らについて何かを述べる際は、慎重に言葉を選ぶようにしています。

ウクライナ料理の中で、何が好きですか。

スープです。

どんな音楽を聴きますか?

オケアン・エリジ、ダハブラハ、ヴィヴィエン・モルト、オディン・ウ・カノエ、ジャマラです。

あなたは、何年もウクライナにいますが、あなたがこれまで費やしてきた努力、時間、気持ちにウクライナは見合っていると思いますか?

ええ。私は、子供の頃の自分の選択を後悔したことは一度もありません。

ラーナ・サモフヴァロヴァ、キーウ

写真:タラソウ・ヴォロディーミル、パブリブ