ザポリッジャ方面の火砲部隊 「勝利は一兵卒からザルジュニーまで皆が望んでいる」 

多連装ロケットシステム「パルティザン」担当の兵士たちは、ザポリッジャ方面で占領軍を攻撃している。

同方面は現在、非常に緊迫している。敵は、制圧した領土でかなり熱心に塹壕を掘っており、最近では可能なところ全てに地雷を設置し始めた。軍人たちは、ロシア軍が、例えば直進するのではなく、代わりに大きな区間や道路の特定区間を迂回している様子からそのことがわかると言う。ドニプロ市領土防衛部隊独立旅団の軍人たちは、それでも敵の装備を攻撃し、敵兵力を「減らしている」。

占領軍攻撃の際には、機動式多連装ロケットシステム「パルティザン」も使われている。

ウクルインフォルムの記者たちは、「パルティザン」の陣地を訪れ、私たちの軍人たちが敵の指揮所をどのように攻撃しているのかを見てきた。

執筆:オリハ・クドリャ

写真:ドミトロー・スモリイェンコ

歩兵戦闘車を「狩る」

「この『パルティザン』の筒の部分は、ヘルソン方面でロシアの『グラート』から取ったもので、照準器は、リマン方面でロシアの『ウラガン』から取ったものなんだ」と述べるのは、砲手チーム指揮官、方角確認担当、コードネーム「ルカ」だ。彼は、「他は全てウクライナの技師が作った物で、自動車は『自動車旅団』ので、資金はウクライナの人々が集めてくれた。ロシア版『レンドリース』に、ウクライナの考えと心が込められたものだよ」と述べる。

ルカは、このシステムの大きな利点はその機動性だと述べ、なぜなら、砲手があらゆる地点へと移動が可能だからだと説明する。大切なことは上空で「鳥」(編集注:無人機のこと)が活動し、座標を伝えることだという。

彼はまた、「私たちの方がより精確に攻撃している。私たちのロケットの数は、例えば、普通の『グラート』よりも少ないが、しかし、私たちの方がより精確に活動している。無人航空機が支援してくれている。私たちのロケットの飛距離は最大20キロメートルだ」と説明しながら、戦闘課題遂行の準備を進めた。

砲手チーム(運転手、発射担当、方角確認担当、指揮官からなる)は、理想的な結果を出すために、2人1組で働くという。

発射担当のコードネーム「KVN」は、「私たちは空中偵察チームと仕事をしており、私たちの効率は95%だ。私たちのロケットは41秒間で目標地点に到達する」と述べる。

KVNは30歳だ。ハルキウ出身で、ビジネスを営んでいた。彼のコードネームは、学生時代に「KVN」(コント)に出ていたことにちなんだものだ。彼は、戦争中もユーモアなしではいけないと言う。

「パルティザン」チームは、敵の標的を多く破壊し、戦果をあげている。例えば、彼らは1週間前には、武器庫を攻撃し、敵の電子線システムと偵察戦闘車を破壊した。今、彼らは、ウクライナ側の迫撃砲チームを激しく攻撃してくる歩兵戦闘車を1台狩りたがっている。

小さな勝利の大きな代償

迫撃砲チームの指揮官「ハル」は、ロシア人が最近以前より苛立っていると述べる。

ハルは、「私たちの『パルティザン』は、彼らの神経を攻撃している。私たちは、傍受した通信記録により、彼らが苛立っているのを知っている。なぜなら、彼らはどこから何が飛んでくるのかがわからないからだ。例えば最近は、ロケットが彼らの武器庫に飛んできたが、彼らは間違いなくそれを予期していなかった」と述べた。

ハルの出身はヘルソン州で、2022年夏から部隊に入っている。彼は、軍人たちは皆ウクライナ側のどんな前進のことも、どんな町の解放も喜んでいると言う。同時に彼は、その喜びは「それなり」のものでしかないとも付け加える。なぜなら、どのような代償によってそれが達成されたかを、皆が理解しているからだという。

「グラート」指揮官で方角確認担当のルスランは、バフムートで友人が戦死した直後に、ウクライナ軍に加わったという。友人は燃える戦車の中で死亡。彼には妻と3人の子供がいたという。

ルスランは、「10月に彼の葬式に出て、前線へ行くことを決めた。11月9日に選考を通過した。私たちは最初、訓練センターへ行き、その後ザポリッジャ方面へ行くことになった」と語る。

亡くなった友人の名は、イェウヘン。2人は、ハルキウ近郊のマリニウカという町で知り合ったという。

ルスランは、「私は、これまでの人生では、サッカーをしてきた。彼は私を応援する者の内の1人だった。試合の時には、いつも私のところへやってきてくれた。彼は、全面戦争が始まったらすぐに前線へ向かったんだ」と述べる。

またルスランは、まず射撃手として部隊に入り、それから上級砲手になり、その後「グラート」指揮官になったと述べた。

私は彼に、「そのシステムで仕事をするのは難しい?」と聞く。

ルスランは、「自動車を買ったら、最初はその特徴のことを全ては知らず、書かれていることしかわからないだろう。その後、実践の中で理解していくものだ。しかし、私たちは、割とすぐに習得したよ」と答える。

家では、彼のことを2人の息子と妻が待っているという。彼は、自分がどこへ向かうのかは理解していたと言いつつ、同時に、前線、そしてこの国全体で、今何が起こっているのかについて、残念ながら多くの民間人が今もまだ認識していないと述べる。

ルスランはいつも笑顔で、前向きで、よく話す。しかし、前線での最も困難だった日のことを話した途端、彼の顔は真剣になり、笑顔は完全に消えてなくなった。

ルスランは、当時のことをこう語った。「最も困難だった日は、私たちの内の1人が『300』となった時だ(編集注:「300」は隠語で「負傷」の意)。彼は、その時18歳だった。私たちは3人で陣地へ向かい、彼は負傷した。それが私にとって最も苦しかった時だ。私には息子が2人いると言っただろう。それで、私が部隊に入った時、彼は私の息子のことを思い出させたのだ。すぐに友人に、仲間になった。私たちは今も一緒にいる。彼は私のチームにいる。苦しかったよ。彼が怪我を負って搬送される中、私は戦闘に向かわないといけなかったんだ。」

陣地に到着したら、コメントどころではなくなり、私たちの会話は中断した。

「ゴールを決めて、自分のチームが1ー0で勝った時」

彼らは、戦場にて非常に素早くシステムを展開し、空中偵察担当が座標を伝え、チームが調整をすると、敵標的に向けて6弾の砲弾を放った。そして、同じように速やかに片付けて移動した。移動中に、ロシア側指揮所が破壊できたことがわかった。

「着弾がわかった時は、どういう気持ち?」 グラートの指揮官と会話を続ける。

「彼らが幾分か減ったことを嬉しく思うよ。彼らが多すぎるのはわかっているのだから。しかし、いずれにせよ、誇りに思う気持ちはある」と述べる。

私は、「例えるなら何?」と改めて尋ねる。

彼は、「ゴールを決めて、チームが1ー0で勝った時だ。その時の、心の中の幸福感だな」と答える。彼は、戦争中も、プロのサッカー選手なのだ。

私はさらに、「勝利はどういうものになると想像している?」と尋ねる。

彼は、「それはよく考えないといけないな。なぜなら、それについては皆が夢見ているし、願っているのだから。一兵卒から、ザルジュニーまで」と述べる。

彼は、勝利の後はただ家族と一緒にいたい、とはっきりと述べた。また彼は、妻と知り合ったのはウクライナのクリミアだったと付け加える。しかし、今はどんな旅行もしたくない、とも。妻がカルパチア山脈へ休暇に行くことを提案した時、彼はからかって「自然はもう見飽きた」と述べたという。さらに、冗談めかして、しかし、同時に真剣に、ソファーで眠るということがどういうものかを、もう一度感じてみたいと述べる。ただし、大切なのは家族と一緒にいることだ、とも。