ベラルーシの「赤い星」と「白い騎士」

ベラルーシの「赤い星」と「白い騎士」

ウクルインフォルム
いつ、どのようにして、ベラルーシのシンボルは「分裂」したのだろうか。

世界では、それぞれの国に国旗、国章、国歌という国のシンボルがあり、それにより国は特徴付けられ、区別される。これらのシンボルは、国民をまとめて強固にする統合を促す強力な要素である。現在、ベラルーシ社会では大規模な抗議が続いているが、その際に、公式の赤緑のベラルーシ国旗でなく、白赤白の旗が用いられている。これはなぜだろうか。ウクライナの隣国であるベラルーシの国旗、国章、国歌とは一体どのようなものだろうか。それらはどのように生じ、いつどのようにそのシンボルは「分裂」したのだろうか。

短命だったベラルーシ人民共和国

ウクライナ人民共和国軍のウセヴォロド・ペトリウ将軍は、自身の回想録の中で、1917年秋に自身の連隊が、ポリッシャ地方の沼地を通りキーウ(キエフ)へ向かった時のことを記している。将軍は「私たちは、片側に『ミンスク県』と書かれ、もう片側に『ヴォリーニ県』と書かれた平原に入った。青年達は、耐えかねて馬から降り、『ベラルーシ~ウクライナ』と書き換えた」と回顧している。これは、そう遠くない昔、ロシア帝国が崩壊し、新しい民族国家が立ち上がろうとしていた頃の当時の様子を物語るエピソードである。

ウクライナ人民共和国が政治地図に現れたのは1917年11月。これに対して、ベラルーシ人民共和国は1918年3月25日に誕生した。ベラルーシ人民共和国が存在したのは1年未満であり、ロシアのボリシェヴィキによりすぐに消されてしまうのだが、しかしこの国が現在の独立ベラルーシの前身である。ベラルーシ人たちは、どんな暗黒の時代であっても常に、同国建国の日を記憶し、ソ連が崩壊すると公式のレベルでこの日を祝い始めた。

パホーニャ
パホーニャ

しかし、1995年、この祝日は無効化され、禁止される。その際、ベラルーシ人民共和国のシンボルであった白赤白の旗、国章「パホーニャ」(Пагоня)、国歌『ヴァヤツキ・マルシュ(戦士の行進)』(Ваяцкі марш)も禁止されている。その禁止の根拠は、当時当選したアレクサンドル・ルカシェンコ(アリャクサンドル・ルカシェンカ)ベラルーシ大統領が主導した国民投票の結果であった。

紋章の秘密

「パホーニャ」とは、リトアニアとベラルーシの伝統ある紋章であり、13世紀から知られるものである。もともと欧州に古来からある紋章であり、興味深い歴史を有す。紋章には、赤色の背景に、銀の騎士が銀の馬にまたがった図が描かれる。その騎士は、右手に剣を、左手に盾を持っている。1384年、パホーニャは、リトアニア大公国の国章となった。リトアニア大公国は、バルト海から黒海まで続く広大で、多くの民族を抱える領土を持っていた。この大公国には、当時「ルーシ」として知られた現在のウクライナ領とベラルーシ領も含まれた。パホーニャは、ベラルーシ、リトアニア、ウクライナ、ポーランド、ロシアの諸公にとっての紋章だったのだ。

この紋章が欧州に最初に現れたのは12世紀であり、二色の配色で描かれていた。なお、紋章は当時、その色も像も紋章学上の厳格なルールに従い、定められた構図で作られていた。紋章学上のルールでは、次の様な「色のヒエラルキー」が存在した。すなわち、上から、金(黄)、銀(白)、ギュールズ(赤)、アジュール(青)、セーブル(黒)、緑、という順序があった。また、これらの色は、欧州文化の基本的な色でもある。

白と赤は、ベラルーシ人、ポーランド人、リトアニア人にとっての伝統ある色である。同時に、歴史を丁寧に見てみると、そもそも最も歴史の長い色彩は、古代ギリシャ・ローマが使った色(白・赤・黒)である。これら3色は、中世初期まで支配的に用いられたものだ。フランスの歴史家であり、色彩に関する書籍を複数記したミシェル・パストゥローは、「封建制時代、白と赤の対立は、白と黒の対立よりもより鮮烈だと感じられていた」と書いている。

写真:ナーシャ・ニーヴァ
写真:ナーシャ・ニーヴァ

スターリン時代のベラルーシ

ベラルーシは、1919年にソヴィエトの一部となる。モスクワは当初、あらゆる面でベラルーシ文化の発展を促し、全ては楽観的に始まっていた。歴史家のティモシー・スナイダー氏は、著書『ネイションの再構築:ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ベラルーシ、1569~1999年』において、「帝国時代であった1920年当時、ベラルーシ語で教育する学校は一つもなかった。ベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国は、学術、ベラルーシ国立大学、図書館、ベラルーシ文化研究所、4000のベラルーシ学校を誇った。ソヴィエト・ベラルーシにおいて、初のベラルーシ史の教科書が書かれたが、しかし、この教科書は出版されず、筆者はモスクワに送られた」と書いている。つまり、ベラルーシの「再生」は一時的なものでしかなかったのだ。ソヴィエト・ベラルーシは、ソヴィエト・ウクライナ同様、すぐにスターリンからの破滅的攻撃を受けることになる。スターリンの命令により、ベラルーシの知識人全体が消し去られる。ある者は銃殺され、ある者はグラークへ送られ、ある者は共産党手帳を掴まされ、沈黙を強制されたのだ。

ティモシー・スナイダー
ティモシー・スナイダー

ソヴィエト・ベラルーシのシンボル

伝統あるベラルーシのシンボルは厳しく禁止され、代わりに新しい、ソヴィエト的シンボルが作られた。国旗は、赤一色で、星と鎌と槌が描かれ、ベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国を示す「БССР」との文字が入ったものとなった。1945年、ベラルーシは、スターリンの意思により、ロシアとウクライナと並び、国連創設国となる。しかし、その際、ベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国の旗がその他のソ連の赤い国旗との間に違いがなかったので、すぐにその旗は民族的要素が加えられる形で「刷新」されることになる。具体的には、1951年、旗の下半分が緑色となり、左側に縦に民族的紋様が加えられた。ソヴィエト・ベラルーシの国章は、その他のソヴィエト共和国と大きな違いはなく、麦の束が横にあり、地球の上に交差された鎌と槌が描かれ、更にその上にクレムリンの赤い星が輝く、という画一的なシンボルであった。国歌には、ご存知のように、レーニンや「間もなく我々を幸福へ誘う」共産党、民族の友好、共産主義といったフレーズが含められていた。

写真:TUT.by
写真:TUT.by

紋章と歌のために受ける弾圧

禁止された民族シンボルによって、人々は銃殺されたり投獄されたりした。目立った例は、ベラルーシの著名な市民活動家であり、「ベラルーシ愛国者同盟」参加者である、アレーシャ・フルス(ウミピロヴィチ)氏だ。彼女は、1940年代末、母語であるベラルーシ語で勉強をしたい、紋章パホーニャを使いたいと主張したことで、モルドバの収容所へ25年間収容させられた。この勇敢な彼女は当時まだ22歳であった。彼女の父親も、娘を教育しなかったとして、10年の収監が言い渡されている。

アレーシャ・フルス
アレーシャ・フルス

ベラルーシ人民共和国の国歌『私たちは緊密な隊列で行く』(別名『戦士の行進』)の作曲家である、ウラジーミル・テラウスキ氏と詩人のマカル・クラウツォウ氏も、悲劇な運命を迎えている。『戦士の行進』は、1920年にベラルーシ国歌とみなされたが、それはすでに独立国家が実質的に消滅し、ベラルーシ人民共和国政府が亡命政権となっていた時のことである。1920年末、ボリシェヴィキ軍を相手とするスルツク蜂起にて人々はこの歌を歌いながら蜂起している。ウラジーミル・テラウスキ氏は、才能ある作曲家であり、多くの人気ある歌を書いたが、1938年にミンスクで銃殺された。長年にわたり、彼の作曲した曲は「民謡」と呼ばれ、粛清された彼の名前は言及されてこなかった。詩人であり、執筆や、民族解放運動に携わっていたマカル・クラウツォウ氏もまた、1939年に内務人民委員部(NKVD)の建物の中で死んでいる。彼は、1919年に「ベラルーシよ! 私たちは自らの運命と独立を自ら守らなければならない!」と書いており、その彼がその時代を生き延びることは難しかったのだろう。なお、スルツク蜂起の始まった11月27日は、ベラルーシ社会の一部の人々によって、英雄の日とみなされている。ただし、現政権はこれを認めていない。

戦後のベラルーシ

ベラルーシ国民の4分の1が命を落とした大戦が終わると、ベラルーシは徹底したロシア化政策の対象となる。例えば、隣国のリトアニアには、共産党員が政権入りこそしたものの、彼らはリトアニア人であったし、ウクライナでも党の中級エリートは概ね親ウクライナ的人物であった。他方で、ベラルーシでは、共産党にはモスクワへの特に忠誠心のある人物が重用されており、「トップが嫌う者は、我々も嫌悪しよう」との原則で人事が行われた。リトアニア首都のヴィルニュスには、国立大学が設置され、1980年には、ヴィルニュスの学校の大半でリトアニア語による教育が行われたが、ベラルーシ首都のミンスクでは、ベラルーシ語で教育が行われた学校は一つもなかった。(ウクライナの状況も相当ひどいものであったが、それでもミンスクほどに希望が失われていたわけでもなかった。)民族史は、ベラルーシの教科書から消滅した。特徴的なことだが、完全にロシア化したソヴィエト・ベラルーシの党幹部は、ベラルーシ人の歴史的記憶から民族再生の思想を排除するため、ありとあらゆることを行っている。ベラルーシの歴史的記憶は完全に「ソヴィエト的」なものとなり、戦争が、歴史におけるほぼ唯一と言える主要な出来事とされた。

ヴァシーリ・ブイコウ
ヴァシーリ・ブイコウ

ベラルーシの著名な作家であり、市民活動家でもあるヴァシーリ・ブイカウ氏は、第二次世界大戦に関する著作を多く残しているが、彼はその全てをベラルーシ語で記述した。しかし、後に彼は、その全てをロシア語に翻訳することを強制されている。同氏は、彼の最初の小説『ツルの鳴き声』(Жураўліным крыку)について、作中登場人物6人が皆死んでしまうことから、出版が避けられたことを回顧している。ヴァシーリ・ブイコウは、ベラルーシ政権幹部を批判することを恐れず、それにより厳しい罰を受けている。また彼は、「地方の報復主義は非常に激しかったし、秘密警察の暴露・懲罰の需要は、党階級の奥深くに根付いたものだった」と指摘している。彼は、晩年のインタビューにて、ベラルーシとロシアの同盟について懐疑的な立場を見せ、同盟ではベラルーシがロシアに吸収されることが避けられないと警告している。

ペレストロイカ期

アレシ・アダモーヴィチは、故郷ベラルーシを否定的に「ペレストロイカのヴァンデ」と呼んだ。地元の共産党エリートは、変化に激しく抵抗し、ベラルーシの独立を混乱とともに恐れた。1988年10月30日、ソ連政権は、現在「ジャディ88」として記憶される、クラパティ森での何千人の平和なデモを乱暴に排除している。同じ日、ミンスク近郊では、スターリン体制下で拷問を受けて死んだ約10万人の同胞に哀悼を表しに来た者たちが、警察により排除された。人々は、警棒で殴られ、野に投げ出され、押しつぶされ、追い回された挙句、移送車両に押し込められた。その際、全員を捕まえることは不可能であったため、後にベラルーシ人民戦線のリーダーの一人となるジャノン・パズニャクをはじめとする人々が、野に追いやられた。このパズニャク氏が、後にこの恐ろしいクラパティでの出来事を世に伝えたのだ。

写真:セルゲイ・ブルシュカ
写真:セルゲイ・ブルシュカ

この事件の参加者の一人は、人々が激しく殴られ、平原にて軍人に包囲される中、立ちずさんだ時のことを回想している。重い灰色の空から雪が降り、厳しい風が吹き、青ざめた指で支えられたろうそくの炎が揺らぐ中、彼らは、母語たるベラルーシ語で、無実のまま殺された者への祈りを述べたという。その彼らの頭上には、白赤白の旗がたなびいていたのだ。

クラパティの出来事についての真実が世に伝わり、1988年に死体発掘が始まると、それはベラルーシ社会を震撼させただけでなく、近代的ベラルーシ・ネイションの誕生が後押しされることになった。白赤白の旗の下での集会は、ベラルーシ現代史における、初めての民と政権の間の明白な対立となったのである。それは、ベラルーシ社会における文明上の深い対立となったのであり、社会を、過去を守る者と、恐怖と欺瞞のない新しい国に暮らしたい者とに分けたのであった。

民族のシンボルである、旗、紋章、歌は、1991年のベラルーシ独立の宣言後に国のシンボルとなったが、しかし、それらが採用されていた期間は長くない。1995年には、祝日だけでなく、白赤白の国旗、国章「パホーニャ」、国歌も廃止されている。その際に代わりに採用されたのが修正の加えられたソ連式シンボルである。赤い共産主義の星が、またも銀の騎士を追いやったのだ。

この記事は、少しだけ楽観的な一文で終わりたいと思う。「自由よ、我らと永遠にあれ。我らはどんな暴力も追い返そう!」(ベラルーシ人民共和国国歌歌詞の一フレーズ)

スヴィトラーナ・シェウツォヴァ/キーウ

一枚目の写真:TUT.by


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