誰がいつ、オデーサ、ヘルソン、マリウポリを作ったのか

誰がいつ、オデーサ、ヘルソン、マリウポリを作ったのか

ウクルインフォルム
ウクライナ南部には、ロシア帝国の作った「伝説」やロシア・プロパガンダとは異なる本当の歴史がある。

「新ロシア(ノヴォロシア)」に関わる「伝説(偽の言説)」の内容は、ウクライナのステップと黒海沿岸地域の文化や歴史は、ウクライナよりむしろ、相当程度ロシアに属している、というものである。残念ながら、これは現在まで、ロシアや「ロシアの世界(ルスキー・ミール)」を真に受けている人々の間に限らず、多くのウクライナ国民の間にも広まっている。このような「伝説」は、ロシアと、同国が支援する「新ロシア」分離主義者との戦争が行われている今、明白な脅威である。

最近、国家記憶研究所のヴォロディーミル・ヴヤトロヴィチ所長が、ウクライナ南部・東部の諸都市の創設年は、「ロシア帝国の生み出した伝説」を打ち砕くためにも、見直す必要があると発言した。

ウクルインフォルムは、ヴヤトロヴィチ所長の見解の正当性が確認できる事実を並べてみる。

マリウポリ、ヘルソン、オデーサには、ロシア帝国の到来よりも数世紀長い歴史がある

ロシア連邦は、(2014年)「分離主義」を東部ドンバス地方の外、いわゆる「新ロシア」全域に拡大しようとしたが、その試みは失敗した。しかしながら、「ロシアの世界」信奉者のウクライナ南部諸地域に関する考えは、今も強固である。それは、人々の脱共産主義、言語問題、ロシアに対する立場を見れば十分にわかる。その理由は、これら地域の住民が、自らの故郷が誕生したのは、しばしばロシアのおかげだと思っているからである。人々は、エリザヴェータ・ロシア皇帝が現れるまでは、現在クロピウニツィキー市のある地には野草が伸び放題で、エカチェリーナ2世が現れるまでは、現在のドニプロ市のあるドニプロ側の沿岸にはアシが生え、ロシア帝国が到来するまでは、ステップとクリミアではオオカミが吠えていたと言うのだ。

このようなイメージは、数世紀にわたる「ロシア化」により強制的に植えつけられたものであり、全く持って事実に反する。なぜなら、18世紀にウクライナのステップにロシアが帝国的野心と「ビザンチン帝国的プロジェクト」を抱えて現れる以前にも、何世紀もウクライナ人やその他の民族がこの南部に暮らしていたからである。コサックたちの集落は、ステップのあちこちにあり、黒海とアゾフ海の沿岸に達していた。16世紀には、現在のマリウポリがある場所には、コサックの要塞「カリミウス」があった。そこは「ザポロージャのコサック軍」のカイミウス防衛地点の中心だったのである。現在のヘルソン市のある場所には、1730年にはすでに、ザポロージャ・コサックたちがオレクサンドリウ壕を作り、イングース防衛地点の中心としていた。ドニプロ市のあるところは、ジェチポスポリータ時代に、コダク要塞が立っており、後には、ザポロージャ・コダク防衛地点が置かれている。

エカチェリーナ2世を敬愛し、ウクライナ語をあまり好まないオデーサ市民たちは、なぜか、エカチェリーナ2世より400年ほど前に、リトアニア大公国が現在のオデーサの地に要塞と貿易港を作ったことは思い出そうとしない。その要塞はまず「ハジベイ(カチュベイ)」と名付けられ(オデーサ市の旧名)、その後、オスマン帝国が「イェニ・ドゥンヤ」と改名した。この地の町の創立年は、1415年にさかのぼる。

ロシア帝国は、「新ロシア」をどのように作ったのか

ウィキペディアを数分眺めるだけでも、ロシア帝国がウクライナ南部のステップと黒海沿岸地域の集落を作ったなどという主張は、正しくないことがわかる。他方で、南部の植民地化がロシア帝国時代に活発化し、急速に進んでいったことは、否定しようがない。しかしながら、ロシアにとってのこの活発な植民地化の裏には、強制移住、弾圧、犯罪があったことも無視すべきでない。

1775年、エカチェリーナ2世により、コサックたちのザポロージャ・シーチが解体される。ウクライナの悲劇の歴史の一幕である。しかし、エカチェリーナ2世は、ザポロージャ・シーチのみを解体したわけではない。そのコサックたちの最大の拠点を破壊した後も、ザポロージャの領域には、約6000名のコサック系住民たちが暮らしていた。彼らの居住地を、ロシア軍は、その後の数年で体系的に破壊し、その後の「植民地化」のために土地を「ならして」いったのである。

類似の植民地化のための暴力的手段は、クリミアでも使われた。ロシアは、オスマン帝国との戦争の結果、同帝国からクリミア・ハン国を獲得すると、1778年、エカテリーナ2世は、クリミアからステップ地方へ強制的に3万2000人以上のアルメニア人とギリシャ人を移住させる命令を発出する。これにより、クリミアの経済と社会は破綻し、ロシアの「植民地化」に抵抗することができなくなるのである。

ロシア帝国が到来した地では、どこも既存の集落やコミュニティが破壊されていった。それは、その後、ロシアが「自らの場所」を作り出すためであった。現在のクロピウニツィキー市がある場所にあったコサック集落の運命が典型的である。エリザヴェータ皇帝時代の帝国政府はウクライナ南部にセルビア人を送ろうとしたため、そこに住んでいた住民は自らの故郷を去らざるを得なくなっている。ウクライナ南部の植民地化の歴史は、同様の出来事であふれている。ロシアの植民地化の「伝説」は、帝国により生活と家族を壊された多くの人々の血と涙の上に立っているのである。

ウクライナ南部は、常にウクライナであった

「新ロシア」愛好家たちが最も愛するのは、黒海沿岸地域の帝国時代の開発史における、経済的成功とロシア、ロシア人、「ロシアの世界」の指導的役割である。しかし、帝国時代のその地方の住民の大半がウクライナ人であったという事実は、なぜか無視される。つまり、その成功は、ウクライナ人が行ったと主張できるのだ。18世紀末、帝国が同地を治めてからしばらく経過した頃も、アゾフ海沿岸と新ロシア州におけるウクライナ人は住民全体の74%を占めていたのである。ロシア帝国による、現地の多数のウクライナ人を、ドイツ人、ギリシャ人、その他の民族の移住により「希釈」しようとする努力は、結局のところ成功しなかったのである。「ロシアの世界」なるもののウクライナ南部への浸透は、移民者や町の建設者などを通じてではなく、現地住民への「ロシア化」や、ウクライナ語やウクライナ文化の禁止を通じて実現されたのである。残念ながら、その浸透は非常に深く、私たちは今でもその影響をぬぐいきれていない。

そのため、南部の大都市の歴史を話す際に、私たちが覚えておくべきは、帝国の遺産というものが極めて特殊であり、帝国の建設者なるものは頻繁に多くの場合破壊者であったということである。この歴史的真実を人々に伝えることは、国家安全保障の課題である。なぜなら、ロシアは、オデーサ、ドニプロ、ミコライウがウクライナに属すということを何らかの「歴史的誤解」だと執拗に主張しているからである。「偉大な帝国」がやってきて、荒れたステップに町や工場を作り、その後、おろかなレーニンと、更におろかなフルシチョフが、おろかなウクライナ人に全てくれてやった、と彼らは主張するのである。

ウクライナ人はおのおの、これら全てのプロパガンダ的命題が、創作であることを知っておくべきである。なぜなら、ウクライナ南部の歴史は、ロシア帝国到来以前よりはるか前に始まっているからである。さらに言えば、ステップと黒海沿岸は、ある時に植民化か何かの結果としてウクライナ化したのではない。これらの地は、常にウクライナであったのである。

ヴャチェスラウ・マスニー、キーウ


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