レオニード・クチマ元ウクライナ大統領
ウクライナが成立したという歴史的事実そのものが称賛に値する
31.08.2026 15:09
レオニード・クチマ元ウクライナ大統領
ウクライナが成立したという歴史的事実そのものが称賛に値する
31.08.2026 15:09

1990年代と2000年代初頭は、しばしば独立ウクライナの形成期と呼ばれる。独立35周年に際し、ウクルインフォルムはレオニード・クチマ第2代ウクライナ大統領(1994〜2005年)に、私たちの国の歴史におけるその時代の成果と過ちについて話を聞いた。独占インタビューでは、クチマ元大統領は、「ブダペスト覚書」の署名を拒否していたらウクライナを戦争から救えたのか、民営化をめぐる問題は回避できたのか、当時のロシアとの関係はどのようなものであったかといった質問に答えている。

聞き手:ウクルインフォルム


年率10000%を超えるインフレと23%のGDP下落という状態で国を引き継いだ

今日、独立の35年間を振り返った時、ウクライナが実現した最大の成果は何だとお考えですか? ウクライナがもはやソ連の過去へ戻ることは絶対にないと実感した瞬間はありましたか?

1つの具体的な成果だけを挙げるのは難しいですね。ウクライナが成立した、そしてその歴史的事実そのものが称賛に値します。なぜなら、私たちの国は、単に「誰か/何かのおかげで」というだけでなく、「〜にもかかわらず」成立したからです(編集注:困難な状況であったにもかかわらず、という意味)。

私の大統領在任期間の出来事だけをとっても、私たちの成果リストは印象的です。民主的な憲法。安定したフリヴニャ。国境問題の調整。宇宙開発。私たちは極めて深刻な経済危機を克服しました。私は年率10000%を超えるインフレ率と23%のGDP下落という状態で国を引き継ぎました。世界の全ての国家の中でも、これらの指標は最悪の部類に入っていました。一方、政権を去る際には、世界最高水準となる12%以上の年間GDP成長率をウクライナに残しました。また、私たちが機能する民主的制度、成熟した社会、責任ある政権を備えた文明国家であることを証拠でもって世界に示しました。私が(証拠と)述べているのは、今日私たちが「オレンジ革命」と呼んでいる、社会・政治的紛争が、国民的対話を通じて解決されたことです。

私の大統領退任後も、多くの問題がウクライナの運命に降りかかりました。歴代の国家元首にはそれぞれの「試練のリスト」があるはずです。しかし、もちろん、その大半は2022年2月24日に始まった出来事に比べれば霞んでしまいます。

私たちの国家としての35年のうち、3分の1以上が戦争の期間に当たります。しかも、資源の面で私たちを何倍も、時には桁違いに上回る侵略国に対峙する戦争です。現代史に同様の例がどれほどあるでしょうか? 1つもないように思われます。したがって、私たちが立ち向かっている21世紀において前例のないとんでもない挑戦を考慮すれば、ただ生き残っていること、存在を維持できたこと自体がすでに偉大な成果と言えるでしょう。

しかし、私たちは比較にならないほど大きなものを達成しました。ウクライナは、軍、政権、社会の全てが鍛え上げられた国家となりました。国外からの支援をただ請い願い受け取るだけの存在から、まずは対等なパートナーへと、その後は「安全保障の輸出国」へと変貌を遂げたのです。私たちはユニークな能力と経験を備えた国際的プレイヤーとなりました。

現在、私たちは新しい世界が形成されるまさにその中心にいます。ウクライナで歴史が作られているのです。私たちがそれを認識することはまだできません。しかし、進化の法則は、最も強い者が生き残るというだけでなく、その後、彼らが発展の最先端の枝になるという点にあります。ウクライナにそのようなチャンスはあるでしょうか? 私は、あると期待しています。

ソ連的過去への回帰については、独立を果たしたその瞬間から、私にはそのような回帰が可能だと考えたことは全くありませんでした! 大統領在任中、一歩一歩、ウクライナは、「旧ソ連」でさえなくなり、最終的にウクライナらしく、新しいものになるために、私はあらゆることを行いました。

独立の全期間を通じて、ウクライナ当局の最大の過ちは何だったとお考えですか?

本当に重要な決定を下すことがいかに難しいか、私は知っています。その際、どれほど多くの「賛成」と「反対」の論拠が秤にかけられることかも。そして結果として、過ちのように見えるかもしれないことも、実際には他に選択肢がなかったというケースもあります。

例えば、多くの人々によって「ブダペスト覚書」の署名が過ちと捉えられていることを私は知っています。それと同時に、ウクライナには署名しないわけにはいかなかったことも知っています。

他方で、私自身は、1992年にウクライナの戦術核兵器を搬出することに合意したことを致命的な過ちだと考えています。しかし、当時レオニード・クラウチューク氏(編集注:当時大統領)が他の選択肢を見出していたかどうかは誰にも分かりません。

間違いない過ちとして、私は(編集注:2013年の)ヴィリニュスでのEUとの連合(協定)の署名拒否という壊滅的な決断を間違いなく挙げます。しかし感情的には、私個人にとって最も受け入れがたいのは、2014年2月、3月における実質的なクリミアの明け渡しです。ウクライナの半島を落ち着き払って、横柄にコントロール下に置いていた「リトルグリーンメン」の行動に対する反応の欠如のことです。思い出してもらいたいですが、形式的には、当時はロシア人のことすら話されていませんでした。彼らは「正体不明のテロリスト」であったわけで、それには相応の対処をすべきでした。クリミアでの断固とした反撃があれば、「併合」の試みを芽のうちに摘み取ることはできたかもしれないのです。

1992年にあなたが内閣を率いた際(編集注:クチマ氏は大統領になる前に首相を務めていた)、経済は崩壊とハイパーインフレの状態にありました。当時のどのような決定が最も困難でありながら、国を完全な破産から救ったのでしょうか?

私の首相就任初期の状況を実に的確に表現されていますね。それは崩壊寸前でした。そしてそれを回避するため、私は前例のない責任を負わざるを得ませんでした。いわゆる「政令(デクレート)」によって経済プロセスを調整することです。あれはまだ体系的な改革ではなかったし、政令は緊急手段に過ぎませんでした。しかし、その政令は、あなたの言葉通り、国を破産から救うことを実際に可能にしました。無政府状態と混乱を止め、初歩的な秩序をもたらすのに役立ったのです。

貴社の読者には信じがたいことかもしれませんが、1992〜1993年に私の内閣によって準備され、最高会議で採択された約100の政令のうち、約半分が今なお機能しているのです! 一部は当初の形のまま、一部は変更なしに法律へと「再承認」されました。そのため、それらの中から最も重要なものを選ぶのは困難です。それらは全て、その歴史的瞬間において決定的に重要なものでした。

強いて言えば1つ挙げることができます。なぜなら、かつてチェコのヴァーツラフ・ハヴェル大統領がまさにそれを評価してくれたからです。1992年12月26日に発令された政令は、ウクライナの土地基金全体の10%以上にあたる宅地(国有菜園用地)を私有化しました。そして数年後、私がすでに大統領としてハヴェル氏と会った際、彼は当時この政令に文字通り驚愕したと言いました。「1つの命令で10%だって?!  チェコ人はチェコの経済文化と市場伝統がありながら、5年もかけてそれより少ない割合の土地しか私有化できなかったのに!」と。これを聞けたのは大変嬉しいことでした。

あなたの統治モデルは、しばしば「オリガルヒ体制の芽生え」と形容されます。もし1990年代に戻れるとしたら、極端に巨大なオリガルヒ(編集注:大富豪)の出現を回避するために、今日の視点から大型企業の私有化をどのように進めますか?

そのような質問の立て方は、タイムマシンで過去に移動できたらどんなに素晴らしいだろう、という子供の夢を少し思い起こさせます。「自分があそこで飛行機やコンピューターについて全て話してやれば、彼らは自分でそれらを造るだろう!」というような。残念ながら、そうはいかないものです。タイムマシンを造ることが不可能だからというだけでなく、過去には飛行機やコンピューターを作るのに必要な知識も、材料も、手段も存在しないからです。

想像してみてください。私が現在の知識を持って90年代に戻るとします。そこで私が見るものは何でしょうか? 文明的で透明性のある「欧州的な」私有化のための条件も、文化も、手段も、環境も存在しないということです。最も重要なこととして、市場が存在していませんでした。

国家経済企業の民営化プロセスは、私が大統領に就任する前にすでに開始されていました。1992年に対応する法律が最高会議で採択されました。形式的には、これらの企業の従業員がそのまま共同所有者となりました。資産の大部分が民営化証券の形で彼らの間で分配されたのです。紙の上では全て順調でした。企業は単一の資産複合体として残りました。「働く者が所有する」という社会的公正が守られました。しかし、文字通り翌日には、新しい共同所有者たちは、自分たちが何を受け取り、それをどのように利用すべきか理解しないまま、わけの分からない紙切れを「闇」市場の転売屋に捨て値で売却してしまったのです。なぜなら、それができた唯一の市場は闇市場であり、最高会議が創設に失敗した証券取引市場ではなかったからです。

90年代半ばのウクライナの経済状況が破滅的なものであったことを思い出してください。一方では、困窮した住民によって民営化証券の大部分が非常に早く転売されたため、将来の大型ビジネス所有者の一部はこの方法で制御権を獲得しました。他方では、効率的な所有者が資金を投じて生産を維持する準備をしなければ、企業が停止し、一部は文字通り崩壊し始めていたため、民営化は理想的なメカニズムの構築を待つわけにはいきませんでした。

私が何度も言ってきたことを繰り返します。私はウクライナ人を「所有者の国民」へと変革することに貢献したことを誇りに思っています。数千万人の国民が所有権を得てビジネスを始める機会を利用しました。そして同様に、ウクライナ経済の最も重要な資産が外国人の所有に移るのではなく、ウクライナ人投資家の手に渡るようあらゆる手立てを尽くしたことを誇りに思っています。当時の状況では「外国人の手」とは実質的に「ロシア人の手」を意味していたのです。

私の大統領在任中に台頭し、通常「オリガルヒ」と呼ばれる大事業家たち(ちなみに、私の任期の後にそのような存在はさらに多く現れました)は、社会においてしばしば否定的に捉えられています。しかし、ウクライナの大型国内資本は、世紀の変わり目にウクライナの国家経済を救うにあたって政権を助けました。そして私の大統領時代のオリガルヒの大半は、今日、経済を発展させ、軍を助け、社会を支えることで、ウクライナのために誠実に働いています。

したがって、もし私が「タイムマシン」で90年代に戻ったとしても、多くのことを異なる形で進めることはまずできなかったでしょう。客観的な状況が現実を定めていたのです。しかし、全てを違った形で行おうとしたとも思いません。主要企業と産業全体の所有権構造の改革戦略は正しかったと考えています。

もし今日、90年代になされた決定を1つだけ変更できるとしたら、それは何でしょうか?

人事面の決断のいずれかになると思います。なぜなら、主な政治的・経済的決定は正しかったと考えており、その証明が1990年代の極めて重い危機を克服したことだからです。

ウクライナ社会はNATO加盟路線への準備ができていなかった

あなたは今後数十年にわたるウクライナの運命を決定づけた文書に署名されました。最も難しかった決断は何ですか?

真に歴史的展望を持つものの中からなら、欧州大西洋統合(編集注:北大西洋条約機構(NATO)加盟方針)に関する決断を挙げます。その難しさは、ウクライナ社会が当時そのような選択を受け入れる準備がまだ十分でなかった点にありました。

しかし、1997年に「ウクライナ・NATO特別パートナーシップ憲章」に署名した際、私はすでにNATOとのより緊密なコンタクトを希求していました。そして1999年の(編集注:大統領2期目の)就任式で、『新しい大統領の姿を目にすることになる』と約束した際に、準備していた変化の1つが、ウクライナのNATO(加盟)路線の採択のことだったのです。

実際にその通りになりました。2002年5月、私が議長を務めた国家安全保障国防会議(NSDC)は、私たちの国がNATOの正式メンバーとなるという課題を公式に定めました。

大統領は国の歴史をどれほど実際に変えることができるのでしょうか? あるいは、単に状況に対応しているに過ぎないのでしょうか?

私は、大統領が真に歴史を変えることができるのは、歴史そのものがすでに変わる準備ができている場合だけだと思っています。変化のための客観的条件が熟しているなら、です。急進的な改革を行おうとしたものの失敗に終わった指導者の例は何十も挙げることができます。歴史の準備がまだできていなかったのです。逆に、歴史的条件が文字通り「熟し切って」いるのに、それらを古い形の中に留め置こうとする場合もあります。そういう時は、ようやくドアを少し開けたいだけの穏健な改革者が現れたとたん、扉がヒンジから吹き飛んでしまうのです。ミハイル・ゴルバチョフ氏がその一例です。彼はすでに寿命を迎えていたソ連・共産主義体制を改革しようとしました。結果は知っての通りです。ソ連とソ連共産党を外部からチューニングしようとする試みは、それらが内部からいかに錆びついていたかを示し、双方の構造の崩壊をもたらしました。

1994年の時点で、ウクライナの戦略的安全保障に関してはもう決定の余地はなかった。その2年前に全てが決定されていた

ウクライナは世界第3位の保有量だった核兵器を自発的に放棄しました。それは正しい決定だったのでしょうか? 当時あなたは、ロシアがいつか義務に違反するかもしれないというリスクを感じていましたか?

ウクライナの核軍縮に関する決定は、私の大統領就任前に下されたものです。私はその決定に関与していません。しかし、私は、当時生じていた状況において、私たちに実質的に選択肢がなかったことを知っていました。1994年の時点でウクライナに残されていた核兵器は、私たちの安全保障を強化できないばかりか、私たち自身にとって危険を現実的に作り出していました。

1994年当時、ウクライナの保有核兵器は戦略兵器のみで構成されていました。これらは4〜5000キロメートルから始まる巨大な射程を持つミサイルでした。それらの使用命令を出すことができたのはロシアだけでした。しかも、1240個の核弾頭と176弾中130弾のミサイル全てを生産・保守(つまり戦闘可能状態、あるいは少なくとも安全な状態に維持)することできたのは、そのロシアだけだったのです。私たちにはそのような専門知識も経験もありませんでした。そして、これら全ての「資産」の保証運用期間は期限切れを迎えつつありました。一部の弾頭はすでに、核の専門家が言うところの、「息を」していたのです。

「ブダペスト覚書」の義務が違反されるリスクを感じていたかですか? いいえ! それは絶対にあり得ないことに思えました。世界で最も強力な国家たちですよ! 米国、英国、フランス! 中国も自ら保証に参加することを望んだのです!

確かに、当時は全てが完全に安全であるように思われました。「大国」たちが約束を与えてくれたのです(その言葉の重みは後に彼らの大国という地位にそぐわないものであることが明らかになったのですが)。彼らは皆、保証を提供しました(その「保証」は、後に単なる「確約」に過ぎなかったことが判明したのですが)。欺瞞だと思うことはほぼ不可能でした。

もし未来を知っていたら、違う行動をとっていましたか? 世界はウクライナの歴史から主にどのような教訓を得るべきでしょうか?

過去を変えるというシナリオがお好きのようですね。残念ながら、歴史とは過去についての学問であり、どれほど望んでも変えることはできません。

そして私が大統領になった時点で、何かを劇的に変えることはタイムマシンであっても不可能だったでしょう。1994年の時点で、実質的にウクライナの戦略的安全保障にとっては、もはや決定の余地はなかったのです。その2年前に全てが決定されていました。

事は、「ブダペスト覚書」はウクライナから戦略兵器を剥奪したが、それら兵器の状態と特性はいずれにせよ核抑止力を確保することを可能にするものではなかったという点にあります。しかし、独立の初期には、そのために必要な兵器を私たちは持っていました。当時私たちは、約3000個の戦術核弾頭を保有していたのです。そしてそれらをもってすれば、基本的に、当時の私たちはロシアから自国を防衛することができました。それらには最適な射程距離があり、航空核弾頭、砲弾、艦艇用魚雷、すなわち戦術的兵器一式が含まれていました。そして、戦略的兵器とは異なり、これらを処分する権利はウクライナにあったのです。

逆説的ですが、まさに戦術的兵器こそが当時私たちにとって戦略的な意味を持っていたのです。長期的な展望においてそれを当てにすることは困難だったでしょう。それら弾頭の有効期限も限られていましたから。ただし、核軍縮交渉の期間中はそれらがあれば十分だったはずです。そしてこれにより、交渉ポジションを強化し、ロシアに対して強力な切り札を得ることができたでしょう。まさにロシアに対してです。なぜなら、大国の中で私たちの戦術核兵器を恐れる理由があったのはロシアだけだったからです。ちなみに、戦術核兵器に関する米国からの圧力は、「ブダペスト覚書」の準備の時ほど強くはなかっただろうと推測できます。なぜなら、米国人は自国に照準が合わされていたウクライナ領内の戦略核兵器を取り上げることを求めていたからです。

交渉開始の瞬間まで戦術兵器群を保持していたら、私たちの外交的立場ははるかに強固なものになっていたでしょう。それによって本当の、現実的な補償を得ることができた可能性については言うまでもありません。しかし1992年4、5月にかけて、ウクライナの全ての戦術核兵器はロシアへ搬出されてしまいました。

これは完全に不透明なプロセスであり、私たち最高会議(ウクライナ国会)議員は特別決議を採択して止めようと試みました。しかし、私たちは単に事後報告を受けただけでした。

1994年の時点では、何かを劇的に変える機会はもはやなかったと思います。戦略「核」の放棄はいずれにせよ必要でした。闘うことができたのは、その決定の条件においてのみです。もちろん、「未来を知っていたなら」、ブダペスト覚書の準備に際して、保証国による違反発生時の具体的な行動メカニズムの明記や、各国議会での協定批准を通じた保証の拘束力を求めて闘ったでしょう。しかし、それが非常に役立ったとは思いません。問題は、大国側が1994年型の核兵器は、私たちにとって必要ないばかりか、私たち自身にとって危険であることを熟知していた点にあります。したがって彼らに圧力をかけようとすることは、おそらく見込みがなかったでしょう。手札が悪いのに、ブラフをかけることになってしまったはずです。

ブダペストの主要な教訓は、他人の情けに頼らないことです。自分自身を当てにすること。全てを自分で行うこと。そうしてこそ、私たち自身の運命は私たちの手中に残り続けるのです。

現代史において、私の前にロシア兵への発砲命令を出した国家元首は1人もいない

『ウクライナはロシアではない(Україна не Росія)』という題名のあなたの著書は、クレムリン界隈で激しく、かなり否定的な反応を引き起こしたと言われています。なぜ単なる事実を提示することが彼らをそれほどまでに刺激したのでしょう?

その公式(編集注:ウクライナ≠ロシア)の強みは、それが非常にシンプルだという点にあります。白か黒か。それは選択肢を残さず、その後は、何かしらの可能な統合とか、「1つの民族」についての議論を無意味にするのです。議論することは何もない。ウクライナは、ロシアではない、以上、なわけです。

半分冗談で言えば、大統領という「本業」の非常に多忙な時期に時間を捻出して本の執筆に心血を注いだのに、誰もがその本のことしか知らないというのは少し残念です! そして、真面目な話をすれば、この本がこれほど普及したということを、とても嬉しく思っています。当時執筆を助けてくれた全ての人々に感謝しています。そして『ウクライナはロシアではない 20年後版』という戦時の2冊目を出版する気力を得られたことも、私にとって大切なことでした。こちらも好評を博しました。部数はすぐに完売しました(収益は全てウクライナ軍に寄付されました)。

1997年、あなたはロシアと「大条約」として知られる友好・協力・パートナーシップ協定に署名し、さらに当時、1990年代で最も物議を醸し騒がれた問題の1つである黒海艦隊の分割に関する協定も署名しました。当時の歩み寄りが短期間に終わったのはなぜだとお考えですか?

私はそのような評価には同意しません。あの協定はウクライナにとって最大限に有利なものでした。ちなみに、ロシアの「帝国主義者」たちでさえそう考えていました。ロシア下院がその批准をあれほど引き延ばしたのも偶然ではありません。

主な「歩み寄り」は、譲歩ではありませんでした。ロシアは初めて公式かつ明確にウクライナの領土一体性とクリミアのウクライナ帰属を認めたのです。そしてそれらは短期間のものではありませんでした。協定はウクライナに17年間の平和をもたらしたのです! 政権がこの猶予の利用が、控えめに言っても、常に効率的であったわけではないのですが、それは別の話です。しかし、そのことで協定自体を責めることはできません。

あなたの大統領在任中、クリミアに対するロシアからの脅威の高まりを感じていましたか? 政府は当時、クリミア半島に関する、特にクリミア・タタール人に関する政策において多くの過ちを犯したとは思いませんか?

脅威はもちろん感じていました。ロシアでは、エリツィン氏が政権にいた時期でさえ、かなりの数のあちらの政治家は、その意味で極めて攻撃的でした。ロシア議会は、1954年のクリミアをウクライナへ移管する命令を『破棄』してみせたり、『セヴァストーポリのロシア地位』を承認するなどといった挑発的な決議を採択していました。このような立場をとっていたのは、非主流派の国家主義勢力だけでなく、ルシコフ・モスクワ市長のような、いわゆる『穏健派』の一部の者も含んでいました。

自称「クリミア大統領」として知られるメシュコフ氏の分離主義政権は、ロシアから思想的、財政的、人事的な支援を受けていました。当時のクリミア政府は主にロシア国民で構成されていました。しかも、現地の全ての治安機関がロシア人の手中にありました。1995年3月17日に私がメシュコフ氏の非憲法的な役職を無効化する法律に署名し、ロシアへの強制送還命令を出すまさにその瞬間まで続いていたのです。

クリミア・タタール人に関する政策についてですが、正直なところ、その質問の意味がよく分かりません。私に言わせれば、事実は全て、あなたが仰っていることとは正反対でした。私とクリミア・タタール民族代議機関「メジュリス」の指導者たちとの間には非常に温かい関係がありました。私たちはクリミア・タタール人に経済的優遇措置を提供し、クリミアへの帰還を奨励する政策を実施しました。私は1999〜2000年に10万人ものクリミア・タタール人へのウクライナ国籍の迅速な付与を促進しました。ウクライナ大統領のもとにクリミア・タタール民族代表特別評議会が設置されました。ですから、あなたに提示されたような方向性でこの議題にコメントすることはできません。実際には全く異なっていたと考えているからです。

あなたはエリツィン氏やプーチン氏と何度も直接対話されていましたね。当時、彼らはウクライナに対して脅迫の言葉を口にしましたか?

いいえ、どちらからも脅迫や最後通牒を聞いたことは一度もありません。

トゥズラ島紛争(編集注:2003年、ケルチ海峡にてロシアが自国領タマン半島からウクライナ領トゥズラ島までかかる堤防を建設しようとしたことで生じた危機的状況)の後、なぜウクライナはロシアとの間で「通常通りのビジネス(business as usual)」に戻ったのでしょうか? なぜロシアは、少なくとも関連文書のレベルで、ウクライナの安全保障上の基本的脅威と認定されなかったのですか?

若い人々が今日の立場から、これほど妥協なく歴史を見つめているのは、私にとって常に嬉しいことです。新しい世代にとっては、毅然とした態度と急進的立場が、ロシアとの関係における唯一可能なモデルだということです。

しかし、私はそれを「答えをあらかじめ覗き見ること」と呼んでいます。四半世紀前に起きた全てを、その後に何が起こるかを知った上で見ているのです。あなた方にとっては全てが明快です。しかし、現実ははるかに複雑でした。

ロシアを「ウクライナの安全保障上の基本的脅威」と認定する形式的な理由があったでしょうか? 思い出してもらいたいですが、(トゥズラ島の)危機の最中、島を訪れていた私は、国境侵犯があった場合にはロシア人に向けて発砲せよと直接命令を下しました。これ以上何を厳しくしろというのでしょう。私の知る限り、現代史においてロシア兵への発砲命令を出した国家元首は、私の前に1人もいません。しかし、その後、ロシアはすぐに緊張緩和を始めました。堤防の建設は止まりました。全ては誤解であったという確約が与えられました。

そして、断固とした行動をとるのであれば、当然ながら全員に対して同じ基準で臨むべきですね? そうであれば、当時は私たちの国のズミーニー島について公然と(領有権の)主張を行っていたルーマニアを敵と宣言することの方が、より根拠があったことになります。1997年に私がコンスタンティネスク大統領とウクライナ・ルーマニア善隣協力条約に署名するまでは。しかし、そのような正気でない考えはウクライナの誰の頭にも浮かびませんでした。そしてルーマニアは実際に私たちにとって良い隣国となったのです。

なお、これは典型的な状況です。私が政権に就いた瞬間、ほぼ全ての隣国との間に思想面や、領土面の争いがありました。そして私の任期終了時には、それら全ての国との関係が正常化されていたのです。

プーチンのウクライナに関する最大の過ちは何であり、なぜ彼はそれを犯したとお考えですか?

とても簡潔にお答えします。彼は、ウクライナがロシアではないということを理解していないのです。

ウクライナを表現する3つの言葉を挙げてください。

国民一人一人にとって、ウクライナを表す最もシンプルな3つの言葉は、おそらく「これが・私の・国(це моя країна)」でしょう。憲法なら、おそらくウクライナをまず「独立した、民主的な、単一の(незалежна, демократична, унітарна)」と表現するでしょう。そのような「3つの言葉」には無限の選択肢があり得ます。人生の別の段階であれば、私自身、おそらく異なる言葉を選んだことでしょう。

しかし、今日は、以下の言葉を挙げます。

ヴォーリャ(Воля)。それも「自由」と「不屈」という2つの意味でです。

理知(Розум)。この戦争で私たちの国民が示している創造性と革新性は、設計者であり技師である私を驚嘆させています。

そして、英雄的心情・行為(Героїзм)。これについては、補足説明は不要でしょう。

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