クリミア・タタール民族追放犠牲者追悼日 大統領がメッセージ

5月18日は、ウクライナでは、1944年のクリミアからのクリミア・タタール人全民族の追放を喚起する「クリミア・タタール民族追放犠牲者追悼日」と定められている。同日、ヴォロディーミル・ゼレンシキー大統領は、この追放を恐ろしい犯罪だと指摘するメッセージを発出した。

ゼレンシキー大統領がテレグラム・チャンネルにて伝えた

大統領は、「今日、クリミア・タタール民族虐殺犠牲者追悼日に、私たちは、何千何万の人命が犠牲となり運命が絶たれることとなった、恐ろしい犯罪を思い出している。人々は車両に乗せられ、自らの故郷から何千キロメートルも離れた場所に送られた。多くのクリミア・タタール人がベルリン制圧の功績で勲章を得て戦争から帰ってきたが、彼らが目にしたものは空となった家であった」と書き込んだ。

大統領は、1944年5月18日の朝は「クリミア・タタール民族にとっての悲劇的な夜明けだ」と形容し、それから40年経ってようやく彼らは家に戻ることができるようになったのだと喚起した。

大統領は、「全ての困難は過去のものとなったかのように思えた。しかし、2014年、クリミア併合により多くのウクライナ人とクリミア・タタール人がまたしても自らの大地を去らざるを得なくなった。そして、残った人々も投獄、家宅捜索、弾圧にて苦しんでいる」と伝えた。

その上で、大統領は、「クリミアがウクライナに戻る日は必ず来ると信じている」と強調し、「クリミア・タタール人とウクライナ人が自分の家に戻り、一つのテーブルに集まり、共にこう述べるのだ。『あなたと私の自由を祝って!』(※この部分クリミア・タタール語とウクライナ語で併記)クリミア・タタール民族虐殺の全ての犠牲者を永久に追悼しよう」と強調した。

また、18日未明、大統領府の建物には、クリミア・タタール民族旗とウクライナ国旗が投映された。

なお、5月18日、ウクライナでは、クリミア・タタール民族追放犠牲者追悼日と定められている。1944年5月18日午前3時、クリミア全土でクリミア・タタール人の強制追放が開始。以降、20日までの3日間に大規模な追放が行われ、6月上旬までに18万以上のクリミア・タタール人(民族の間では40万以上とも主張される)が半島から追放された。追放プロセスと、追放先の劣悪な環境で短期間の内に民族の40%以上が亡くなっている。

クリミア・タタール民族の追放は、クリミアの「脱タタール化」であった。その後、クリミアでは文化・歴史遺産が破壊され、クリミア・タタール関連の地名が「ソヴェツキー」「ペルヴォマイスク」「クラスノグヴァルデイスク」など共産主義関連の地名に変えられている。クリミアには、ロシアやその他ソ連構成共和国から移民が移住してきた。

スターリンの対クリミア・タタール政策は、新しいものではなかった。1783年のロシアによるクリミア占領の際も、現地の文化生活が大きく荒廃する原因となっている。その際にも、クリミアには多くのロシア人が入植し、半島のロシア化政策が進められている。