
オデーサの悲劇から5年経過
5年前の今日、ウクライナ南部クリミアはすでにロシアに占領され、東部は戦闘が激化していた。しかし、国全体はおおむね平和で若干の緊張を伴う生活が営まれていた。オデーサも例外ではなかった。同市では、2日の夜、サッカーの試合が予定されていた。
この頃、ロシアのクレムリンは「ロシアの春」計画を推し進めたり、「オデーサ人民共和国」の「建国」宣言をしようとしたりしていたが、これらの試みは無駄に終わっていた。当時のオデーサ市の状況についての欧州安全保障協力機構(OSCE)の評価は、「十分に平穏」というものであった。その悲劇は、極めて唐突に生じ、発展した。この出来事により、約50名が死亡。この事件は、ウクライナ人だけでなく、全世界を震撼させた。
その前日、オデーサのサッカークラブ「チョルノモレーツィ(黒海人)」とハルキウの「メタリスト(金属産業勤務者)」のファン達と親ウクライナのオデーサ市民達による町の中心を歩く共同行進が計画された。同時に、鉄道駅近く、クリコヴェ広場にテントを張っていたオデーサの「反マイダン」活動の参加者たちは、この行進に脅威を感じ、当日、オレクサンドリウシキー広場に集まることを決めた。
その日、午後3時、サッカーファン、地元「自警団」とユーロマイダンの活動家たちの一団が団結広場に集まり、タラス・シェウチェンコ記念文化・休暇公園、「チョルノモーレツィ」のホームスタジアムのある方角へ向かい始めた。彼らがオレクサンドリウシキー広場に差し掛かると、反マイダン側からの攻撃が起きた。それは、数千人の参加する急速に大規模な騒動に発展し、オデーサ市内の主要な通り、ギリシャ通り、デリバシウシカ通り、ギリシャ広場へと拡大した。しばらくして、最初の銃声が鳴り響いた。もはや誰も状況をコントロールできなくなっていた。
午後6時頃、親ウクライナ勢力が、反マイダン勢力を彼らが拠点とするクリコヴェ広場まで追いやった。分離主義集団のテントは焼き払われ、反マイダン勢力は、労働組合の建物に立てこもった。対立する双方は、互いに火炎瓶を投げ合ったり、銃撃し合ったりした。しばらくして、建物に火災が発生。その結果、建物にいた数十人の人物が死亡した。この日のオデーサの騒動により、亡くなった人物の合計は48名。また、200名以上が治療を必要とした。死者の大半は、労働組合の火災による。
捜査機関は、オデーサの大規模騒動は事前に意図的に計画されたものであることを確立している。
オデーサ市役所の決定により、この日は被害者追悼の日と定められている。