ロマン・スシチェンコ・ウクルインフォルム記者(元政治囚)
はっきり言って、私は、耐え切れるとは思っていなかった。
13.09.2019 14:13

ロマン・スシチェンコ氏は、ロシア連邦から解放されてから2日後にウクルインフォルム通信へ同僚に会いに現れた。彼は、病院で診断を受ける前の短い時間をオフィスで過ごした。喜び、笑顔、抱擁。私たちは、彼に約3年間会うことができなかった。ウクルインフォルムのオレクサンドル・ハルチェンコ総裁は、「クリミア」という名のスパークリングワインのびんを取り出した。総裁は、2017年の「ジャーナリストの日」にこのびんを、いつかスシチェンコ氏と再会するときのためにと、取っておいたのだ。彼が拘束されていたのは、1070日間。私たちが、ロマンに対して、どれだけたくさんのことを聞きたいか、想像してみてほしい。今回、私たちは、皆が一人ずつ、ロマンに質問することに決めた。


ロマン、もしかしたらこれはインタビューを始めるにはふさわしくない質問かもしれないけれど、でも、何年間もロシアの牢屋に入れられていたあなただからこそ聞かせて欲しいです。今あなたは、現在のロシア人たちについてどのような考えを持っていますか。彼らは、あなたにどのようにふるまいましたか。あなたがぶつかった体制とは、一体どのようなものでしたか。

私がコミュニケーションをとった人たち、出会った人たちは、様々でした。なぜなら、彼らは色々な民族の人でしたし、それぞれに自分のメンタリティ、文化や伝統を持っていたからです。ただし、彼らは皆ロシア国民というアイデンティティを持っていますが。民族上のロシア人であっても、居住地によってメンタリティは異なります。今回の地獄の始まり、レフォルトヴォ拘置所で出会った人と、その後、収容所で出会った人、道中で会った人たちは様々で、別々の言語、別々のアクセントを持つ人たちでした。

人が異なれば、接し方も違います。私が手紙のやりとりをしていた、私を応援してくれたロシア人たち、それらもまた別のロシア人です。私は彼らの立場、人間としてのサポートに感謝しています。しかし、手紙も様々なものがありました。ある者は心から応援し、心を開き、サポートし、知識やニュースを伝えてくれました。一方、体制側からの者は、具体的な課題を持って手紙を送ってきました。しばしば彼らからの質問は、明白に破滅的な性格を帯びる内容を含んでいました。

概して、私は、ロシア人全体に対する嫌悪感というものは抱いていません。同時に、彼らのことを思い出すのは良い気がしません。

ロシア治安機関の人々へ感情は、明らかにネガティブです。同時に、避けがたい乱暴なことはありましたが、彼らが影響を及ぼそうとやりたい放題をしていたわけでもありません。収容所への移送時、収容所内では、収監者からや記事やらで、収容所運営者のふるまいに関してひどい話を聞いていましたが、私の場合は、物理的な拷問はありませんでした。

しかし、倫理的・心理的に私に及ぼされた影響は、あれは拷問です。それはロシアの懲罰法典でも拷問に分類されています。

なお、監視者の中には、私の立場に理解を示して接してくれた人もいます。ある者は、敬意、理解、同情を目に浮かべるものもいました。他方で、それは限られた人々です。多くの人は、「中立的」にふるまっていました。

収容所内では、ウクライナ領事が訪れるまでの間は、粗暴、心理的圧力が1か月半ほど続きました。拘置所と収容所の差は明白です。収容所では、階級性があり、独自の「概念」なるものがありました。特別な行動規範です。収容所では、ありふれた人物、真の殺人犯、麻薬中毒者、強盗などがいました。彼らの大半は、「私たちに罪はない。たまたまこうなってしまったのだ」等と言っていました。私の彼らへの態度は、そうですね、電車の中のようなものです。ある日、電車で同じ方向へ向かう者と知り合い、話をし、翌日には電車を降り、忘れる、というような。そのようにして、私は心理的にエネルギーを得ていたのです。そうでもしなければ、生き残れませんでしたから。

挑発されることがありましたか。

ありました。事前に計画された企みをしかけられたこともあります。収容所では、複数回にわたり挑発行為が試され、何らかの証拠にされかけました。例えば、私は、「赤」(編集注:収容所側と協力する収監者の隠語)の一人と取り引きをした人物と同じ場所に収監されました。ある時、隣人が別の場所にいるとき、「赤」が私に自作の発熱用の針金を、その隣人に渡して欲しいと述べました。私はそれを引き受け、針金を衣服の中にしまいました。休憩が終わると、監視者が私のところに金属探知機を持って現れました。何らかの「証拠」になるものを探し始めたのです。私は、後になってから、何故そのようなことになったのか理解しました。私の地位を下げるためです。なぜなら、私は、他の収監者と異なり、様々な制限を受けず、親族との面会に向けて準備するような地位だったからです。しかし、私は彼らの意図とは異なる行動を取りました。持ち物検査は私の前の人物から始まり、その間に私は針金を捨てることができました。その時、彼らが私から何かを見つけ出そうとしているのは明らかでした。3度に渡り(金属探知機で)検査をしたのですから…。

私は、懲罰房にも入れられました。彼らの規範上は、私は、安全な場所に入れておかなければならないはずでした。つまり、普通の収監です。しかし、収容所運営側は、私を、重罪者や、犯罪者でありかつ法もルールも政権も一切認めないような人物を入れるための懲罰房へ入れたのです。そこの拘束環境は、非常に厳しく、課される制限は最悪のものでした。

ロマン、あなたは、心理的に耐え難い状況に置かれていたのだと思います。あなたは、この人生の3年間は、「奪われた時間」だと思いますか、それとも無駄ではなかった、何かしらの経験だと呼ぶことができる時間だとみなしますか。

はっきり言って、私は、自分が耐え切れるとは思っていませんでした。人文分野の人間、ましてや、ジャーナリズム出身の人間にとって、拘束は、極めて大きな衝撃でした。拘束された時、そしてその後の出来事、悪臭のするずた袋を頭からかぶせられ…、私は身動きが取れないように手錠がかけられ、腕のスジを伸ばされ、(編集注:拘束したロシア治安機関職員の)一人は私ののど元を押さえつけ、一人が持ち物を調べ始めました。シャツの襟元を調べながら、「どこに毒入りカプセルがあるんだ?武器はあるのか、ないのか?」と尋ねました。私はショックでした。「毒?武器?何のことだ」と。私は、彼らのバスの中で、これは脅しか辱めか何かか?と尋ねました。しかし、返事は得られませんでした。

その時、人生が目の前を走り去ったような気がしました。また、戦争が続いていること、人々が亡くなっていることも知っていましたし、人質がどのように扱われているかも知っていました。そのため、気持ちの準備を始めました。これから、地下に入れられ、拷問があり、カメラの前で「自白」をさせられ、電流が流されるといった様々な最悪の出来事が起きるのだと…。これから私を待ち受けることを認識し始めると、恐怖が生まれました。しかし、このショックが続いたのは、2、3時間でした。捜査局へ連れて行かれ、ずた袋が外され、そこの局長がちり紙を出しました。わたしの顔のほくろが、ずた袋で擦り切れていたのです。その局長がちり紙で私の血をふき取りました。その時、私は、物理的拷問はないだろう、彼らは私を何か別のミッションのために準備しているのだと推測しました。会話が始まり、彼らが私から何を期待しているか理解しました。最初は、捜査官、少佐で、頭を剃りあげた人物が入ってきました。いくらか教育を受けたような感じの人物で、手続き上のことを丁寧に行いました。それから、10分後くらいに、小説や映画に出てくるような、グレーの目で、髪色が明るく、毛髪の少なく、血の気のない中佐が入ってきました。あんな見た目の人はそうそう忘れません。「こんばんは」と彼は言います。「私たちは、あなたを待っていました。私は、ミハイル・ウラジーミロヴィチ・スヴィノルプと言います。私は捜査課副課長です。私たちは、あなたに私たちとの協力を提案します。協力しますか?しませんか?」と彼は述べました。その後、彼らが任命した女性弁護士がやってきて、私に対して「あなたの容疑は、(懲役)20年となります」と言いました。この言葉によるストレスは非常に大きかったです。その後、捜査官がまたやってきて、「さあ、あなたは協力をするつもりですか、協力しませんか?」とまた尋ねました。私は、「私はあなたの話は、聞きおきました。さようなら」と答えました。その次は、内務省の拘置所に連れて行かれました。深夜3時に横になり、目を瞑り、朝6時には最大音量で「揺るぎない同盟を~…!」で始まる国歌がかかりました。そこで、私は、ああ、底辺だ、こんなところに連れて来られたと実感したのです。朝、レフォルトヴォの裁判所に連れて行かれてからも悪夢は続きました。裁判官が私に質問をしましたが、私は何が起きているのかわかりませんでした。裁判官は、「同意しますか、しませんか?」と尋ねるので、私は、「はい、いいえ」と口走っていました。その返事は無意識のものでした。

その後、レフォルトヴォ拘置所に連れて行かれ、完全に着替えさせられ、全ての物品が取られました。作業服を着せられました。隔離されて、2晩目には、ある種の実感が湧きました。そして、さらに2日後には、弁護士のマルク・フェイギンがやってきて、契約を結びました。その時、私は、これが闘いの始まりなのだと理解しました。

それで、この3年間は、奪われた年月だと思いますか、それとも何らかの経験だと言えますか。

奪われたというならば、確かにそうでしょう。別の見方では、誰にもすすめることこそない、得がたい経験でもあります。私は、この体験がいつか何かしら役に立つことになるのか、確信はありません。しかし、それは挑戦でしたし、その挑戦を、私は計画通りに乗り越えることができたと思っています。そして、その計画を始めたのは、拘置所にいたときです。その後、無意識に絵を描いたり、読書をしたりすることを欲し始めました。少しずつ体を動かすようになりました。拘置所では、一人で色々な考え事をしました。「私は今47歳で、(懲役の)20年を足すと…。うわあ。戻ったら、マクシムは何歳になっているんだ(編集注:当時9歳の息子のこと)。私は、彼が成長するのを見られないのか」というようなことを。この点では、時間は、確かに3年間、失われたといえます。

ロマン、私たちがこの3年間、回答を得られなかったことを質問します。どうしてあなたはモスクワに行ったのですか。拘束されたとき、誰と会っていたのですか。

私は、親族関係のことでモスクワを訪れました。緊急に親族を助けないといけなくなったのです。問題を一部解決した後で、古い知人に会いました。彼は軍人で、(ロシア)内務省軍に従軍していました。彼のことは長年知っていました。彼が会おうと言ったのです。

それは、マルク・フェイギン弁護士が言っていた、「代父関係」の人物ですか。

そうです。

つまり、あなたは彼の子どもの代父なのですか。

そうです。その出来事は、聖書のカインとアベルの裏切りのような話を思い起こさせるものです。しかし、私は、当初何も疑っていませんでした。実際、後になってから判明したのですが、それはロシア連邦の特殊機関のコントロールで、私をおとしめるために非常によく準備された冷血な罠だったのです。彼と会った時、彼は私に家族の写真が入っているように見せかけたディスクを私に突き出しました。そして、その後そのディスクが、捜査の際には、内務省軍やロシア連邦軍の訓練に関する何らかの秘密の情報の入ったものに「変貌」したのです。

私が拘束された後、捜査記録の中に、その知り合いが特殊機関の職員に「で、どうだった?ゲームには価値があったか?」と質問しています。その時の返事は、「全て完璧だ!」でした。その時、私は、これが全て計画されていたこと、長い間計画されていたことなのだということを理解しました。私は、何故彼がそのようなことをしたのか、どのような動機が彼にあったのかわかりません。しかし、私は、その時彼は逃れられない状況に置かれていたのではないかと疑っています。

その「計画」は、あなたが書いていた反ロシア的な記事が原因だと考えますか。

その可能性は排除しません。

露連邦保安庁(FSB)は、あなたがあたかもロシア連邦軍の情報を集めていたかのような発表をしました。

捜査側の主張ですね。彼らは、その証拠として、私がウクルインフォルムのために書いたフランスについての、私たちのウェブサイト上で見られるニュースさえも提示していました。例えば、オランド前仏大統領の公式声明、フランス外務省の生命、フランスの専門家の発言等です。

とすると、その「作戦」は、あなたがモスクワ滞在中の数日間で作られたものではなく、あなたが渡航するよりずっと前に計画されていたということですか?!もう一つ。言うまでもなく、あなたは今後、この質問に何度も答えることになるでしょう。ロシアは、私たちが戦争で戦っている相手です。その時、その認識はありましたか?その時、ロシアに行くべきだったのでしょうか。

1つ目の質問は、ええ、その作戦が計画されたものであり、少なくとも1年間、もしくはそれ以上用意されていたものだったと感じました。ロシアに行くべきだったか否か…。その渡航は、誤りであったし、浅はかであったと思います。しかし、もはやどうしようもなく、時間は逆戻りできないのです。起きたことは起きたことであり、それは、私の家族にとって大きな苦難であり、失われた時間です。しかし、未来を見なければならないのです。

ロシアに繋がりのある人、あるいはない人にも、私は、よく考え、状況が変わり、現政権が変わるまで待つことを、強く主張します。リスクは取るべきではないです。

では、未来について話しましょう。あなたがこの数年で別人となって出てきたのは明白です。その非常に特殊な経験を何かに利用しようと思っていますか?もしかしたら、まだ拘束されている人たちのために人権保護活動に加わったりはしませんか。それとも、人質をテーマにした発表を行うつもりですか。市民活動とか、政治とか。

あなたの言いたいことはわかりますが、しかし、まだ全く決めていません。今は、健康診断の問題を解決し、治療し、家の照明を取り変えたり、柱の釘を打ったり、家の用事をすることが大切だと思っています。それから、どうするか見えてくるでしょう。(ウクルインフォルム)通信に戻るつもりなのは、間違いありません。この経験を、書き物や動画で共有するという計画はあります。展示という案もあります。喜んで情報を共有したいと思っています。

同時に、ロシアにはまだ約100人の人が拘束されています。彼らを解放せねばなりません。そのため、私は、自らが仕方なく獲得した経験を共有することにオープンであり、その用意があります。私は私の見方がありますが、私は拘束されていたため、その見方は狭いものです。首脳レベルで何をするかは、もはや私の能力を超えた話です。しかし、何かしらの質問があるなら、私は喜んで答えます。

社会活動についてですが、何かをしたいという意向はあります。政治囚の親族を支援する基金設立という案もあります。支援システムについても調整済みです。なお、私は、他の解放された収監者とともにバスに乗ったときに話をしました。皆、別々の収容所に入れられ、それぞれに特徴があったのですが、しかし、皆がサポートを受けていたと述べていました。食べ物をもらったり、手紙をもらったり、収容所を訪れ「あなたのことは忘れていない、人々はあなたのことを話している」と伝えられたり、心配されたり、応援されたりです。しかし、注目の低かった人もいるし、状況は人によって違いました。だから、私は、この注目を高める必要があると思っています。例えば、私は、既にウクルインフォルムに対して言いましたが、例えば、私の絵をオークションに出して、得られたお金で、人質・政治囚の世話をする基金を作るのはどうかと思っているのです。いくつかアイデアはあります。そして、人々の支援により、このプロジェクトが実現することを強く期待しています。

政界進出の未来は…、私はそれは考えていませんでした。とんでもなく複雑な分野ですからね…。

あなたは、拘束について話をしていたとき、地獄の始まりを理解したと言いましたね。現在はどうですか。地獄からの帰還ですか?解放されてからの数日の気分は?母親とは会いましたか。

実のところ、私はまだ、自分に起きたことを実感しきれていません。惰性で、拘置所や収容所の時と同じく、朝5時に起きてしまいます。体内時計のせいですし、胃液が具体的な時間に出るんでしょう。それで、夜9時には寝てしまいます。認識が現実より少し遅れてやってきている感じです。私は今日携帯電話を手に入れ、どうやってSMSを打つのだったのかを思い出そうとしていました。3年間、据え置きの電話をのぞいて、一切のガジェットを手にすることがなかったので。

正直言って、笑おうとしたり、抱擁しようとしたり、努力しています。しかし、その行為に心がこもっていないとか、疲れがあるとか、そのような感じを抱いています。知り合いを見かけて、名前を思い出そうとするのですが、同時に、悲しみや空虚さを覚えるのです。その空虚感は、今のところ埋められていません。

当然、息子や娘、家族とは話しています。母にも、帰国後すぐに電話をしましたが、母の反応は他の誰とも異なっていました。ひどいリアクションでした!解放の1週間前にある報道があり(編集注:8月末に一度、被拘束者が解放されるとの噂が流れた)、「彼らはもう機上だ!」などと言われていました。母のような、高齢の人間には、もう心の準備ができていたのに、その時実際には解放は実現しなかったのです。そして、また同じ報道が彼女のもとに訪れたのです。彼女が大きなストレスを感じたのでしょう…。私は母に、「母さん、私は戻ったのだよ。このことに少しずつ慣れていきなよ。私は数時間後にまた電話するから」と伝えました。彼女のそばに孫がいたのは良かったです。数時間後、私がもう一度電話したときには、母は少し落ち着いていて、私たちはいくらか話をすることができました。

ロマン、あなたはきっと、拘束されている間を毎日日にちを数えていたのでしょう。最も辛かったのはいつですか。

ええ。1070日です。そのうち、最も困難だった日はいくつかあります。言うまでもなく、最初の日、全てが無理矢理行われた日はその一つです。非常に大きなストレスを感じました。私はその時、もはや全てが終わったと思いました。そして、恐怖を感じていました。

その後、隔離されると、いくらか楽になりました。そこでは、本まで与えられました。その後、(ロシアの)市民監視委員会のゾヤ・スヴェトヴァ等の委員が来て、翌日には、ノーヴァヤ・ガゼータ紙のエレーナ・マイシュークが来て、その後、弁護士のマイク・フェイギンと知り合いました。それで、私は、自分が悪魔と一対一で対峙しているわけではないことを理解したのです。

もう一つの困難な日は、レフォルトヴォ拘置所にて、自殺が起きたときです。その人物は、麻薬使用で拘束されていた人物で、私の目の前の拘置場に入れられていました。夜、監視員がゴミを集めているとき、食事提供用の小窓が開いていたのですが、そこから激しい叫び声が聞こえるのです。誰かが首をつった、と。そして、最も衝撃を受けたのは、人が死んだこと自体ではなく、その死体を私たちの食事を運ぶ台車で運んで行ったことです…。

3つ目の困難な日は、ストリピン車両(編集注:ロシアの罪人専用車両)で(収容所へ)移送されたときです。私たちは、ニシンのように車両に詰め込まれ、28時間かけてキーロフ州へ連れて行かれました。

わかりますか。私は、それまで2年間、収容所にずっといて、弁護士、領事、隣人との対話を制限されていたのです。そこで、急に、ストリピン車両に入れられたのです。私は、マトルスカヤ・ティシナ拘置所や、他の拘置所からの囚人たち13名とともに移送されました。そのうちの何名かは、初めての収監ではない者たちでした。私は、彼らを見たとき、この移送が楽しいものにはならないのだと理解しました。私は、モスクワを出発してからのこの28時間、眠ることがほぼできませんでした。

その後、私たちは駅から移動させられました。囚人の乗った車両には、荷物も載せられ、皆が手錠をかけられ、犬も乗っていましたし、その集団は荒々しいものでした。それぞれが2、3個の荷物を持っていました。また氷点下で、非常に寒く、意識を失ってもおかしくありませんでした。私たちは、皆互いに身を寄せ合って乗っていました。その後、護送車に乗せられました。また、私たちの他にも移送された人たちがいたのですが、彼らはいわゆる多重に罪を重ねたもので、特別な対応が取られていました。彼らは最初に連れて行かれ、叫び声が聞こえ、まるで人としては扱われていないようでした。全てが私たちの目の前で行われました。しかし、最も衝撃だったのは、彼らの見た目です。彼らは、生き物と形容することも難しいほどに青ざめ、目にはすさまじい絶望が映っていました。彼らが何を犯したのか知りませんが、私はその時、彼らがどのような環境に置かれていたのかを、強く実感しました。

これが、困難だった3日です。その後、私は慣れていき、見たり、気づいたり、収容所で他社から期待をしたりして、少し楽になっていったのです。

全てのことを耐えるにあたって、何が力を与えてくれたと思いますか。

恐れていたことのうち、最悪のことは起きないようだ、ということを理解したら、私は、置かれた状況に対して、皮肉を持って接すようになりました。全てに対してそのように接することが、自分を救ったのだと思います。それから、絵を描くことです。心理的なリラクゼーションであり、息抜きであり、それも救いでした。

また、収容所では、心理テストが行われていました。彼らは、リュッシャーのテストなるものや、その他、1000を越える質問からなる何らかの手法を採用しており、それにより、収監者の攻撃性や自殺願望を見つけようとしていました。そのテストには、例えば、「あなたは、ニワトリを切りつけられますか?」というような質問があり、その後また20個ぐらいの質問の後に、「羊を切り付けれますか?」というような質問があるのです。4か月経ち、テスト結果を受け取ったのですが、その時私は、「私はここで何をしているのだ?私は宇宙飛行士の登録でもしているのか」と思ったほどです。なお、私からは、心理的異常は見つかりませんでした。私は、困難な状況にユーモアをもって向き合ったことが自らを救っていたのだと思っています。

あなたは、絵を描くことについて話しましたね。世界中が、この悲しい3年間、あなたの素晴らしい絵を目にし、あなたをアーティストとして認識しました。それは単なるセラピーだったのですか?それとも、私たちは、ロマン・スシチェンコというアーティストを今後も見ていくことができるのでしょうか。

そうかもしれませんね。私は、以前から絵を描いていたんですが、しかしジャーナリズム活動というのは、実質的に時間のない仕事です。さらに、私は、自らの作品を批判的に見ており、絵画の高みにいるとは思っていません。将来の計画は、時間とやる気によりますね。

私は、手紙のやり取りからもエネルギーやモチベーションを得ていました。面白いことを書いてもらうと、心理的に高揚があり、何かしらの絵を描きたくなるのです!更に、私は、収監時にいくつかのロシアの出版物の定期購読をしていました。いくつかはプロパガンダ的なもの、いくつかはある程度バランスが取れて、写真やら絵やら広告やらの載るものでした。そして、自分の世界が壁に囲まれた部屋に制限される中、自分の想像力では限界があり、得られる全てのものを使って、インクや自然の絵の具で紙に絵を描いていたのです。

玉ねぎの皮やケチャップを絵の具にして使っていたと聞きました。絵を描くのに他にどんなものを使っていたのですか。

実験をしていました。最初は、黒や青のボールペン、鉛筆だけでした。消しゴムは禁止されていたので、スリッパを細かく引きちぎって、消しゴムにして、無駄な部分を消していました。紙は、厚紙でなく、普通の紙でした。そのため、すばらしいものを描くことはできませんでした。やれることをやったまでです。最初の何枚かは、2色だけでした。それから、そういえばお茶を飲んでいるな、お茶も色だな、と気がつきました。その次は、祖母が作っていた「クラシャンカ」を思い出し(編集注:クラシャンカとは、ウクライナで復活祭に向けて作られる、卵の殻を食材などを用いて単色に染めたもののこと)、玉ねぎの皮で卵を染めていたな、玉ねぎの皮はあるなと気がつきました。それから、もらっていた薬、これは黄色で、フラツリンというものだったと思います。これで、いくつかの色がそろいました。青、黒、黄色が何色か、紙自体の白、です。その後、にんじんも試しましたが、色が安定せず、すぐに変色してしまいました。ビーツの汁も試しました。濃い色です。これらは、収容所に行く前のことです。収容所では、ウクライナ領事がクレパスを持ってきてくれ、その後はマルク(フェイギン弁護士)が水彩絵の具を持ってきてくれました。それによって、世界は大きく広がりました!同時に、絵のスタイルも変わりました。つまり、歴史上人々がどうやって色を作り出していたかは何も知らず、実験の形で、本能的にそういうことをしていたのです。

その結果は、とてもすばらしいものです。私たちは、感謝していますし、これからの絵描きとしての活躍も応援しています!

ウクルインフォルム

写真:ユリヤ・オウシャンニコヴァ、ウクルインフォルム

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