オレフ・ハラジューク 武装集団に二度拘束されたドネツィク州の教師
私は頭にずだ袋を被せられたまま、3日間椅子に座ったままにさせられた。
29.01.2020 15:15

哲学博士、ハルキウ市場・マネージメント経済研究所トレーズ支部の元教師である、オレフ・ハンジューク氏について、私は2015年8月に一度書いている。

その時彼は、2014年6月に「DPR」に2週間拘束され、解放されてから約1年間、被占領下のトレーズにて暮らしていた。2015年、ハラジューク氏は、ドネツィク州非政府管理地域からようやく抜け出てきて、キーウ郊外ファスチウの親族のもとでしばらく過ごしていた。彼のひどく困難な時期について、私たちが話したことは、当時のインタビュー「ドンバスの愛国者が捕虜生活を生き抜いた。彼は平和なウクライナに必要だろうか?」に書かれている。

ハラジューク氏は、そこで仕事を見つけることができず、4か月過ごした親族のところで自身が重荷だと思われていることを理解し、仕方なく家へ帰ることにした。被占領下のトレーズ市へだ。そこで彼は、プライベート・レッスンを行い、ラジオ・スヴォボーダ通信のために記事を書いていた。彼の記事の内容は、被占領下に暮らす地元住民の生活、「新政権」と呼ばれるもののこと、身の回りのことだった。ペンネームとして、ミロスラウ・チャムシチーを名乗り、「被占領下ドンバスからの手紙」というコーナーで記事を書いていた。

私たち皆、被占領下ドンバスから出てきたジャーナリストたちは、もちろん、真のウクライナ愛国者である彼が、敵の巣の中で、どのような危険に自らをさらしているかわかっていた。彼自身も、もちろんそのことをわかっていた。しかし、それでも彼は、生まれ故郷の町の占領の重たい被害を書き続け、写真を撮り続けたのだ。

そして、しばらくして、彼はフェイスブックから消え、情報空間から消えた。友人の記者たちが警鐘を鳴らした。

オレフがまた拘束されたのではないか、との恐ろしい予想は、すぐに事実であることがわかった…。

二度目の拘束を、彼は2年半過ごし、2019年12月29日にようやく、交換された。ハラジューク氏は、ロシアの犯罪者と交換された人々とともに、キーウ(キエフ)へ到着した。

私はその時、全く別の人がやってきたのだと思った。オレフは、今、自分にとって最も価値あるものは、家でも家族でもなく、自由だと言う。彼は今、これからのウクライナでの人生につき、大きな計画を立てている。

彼への質問は山のようにある。私は、できるだけ基本的なことを尋ねることにした。


休暇に出かけたら、拘束された

オレフ、どうして二度目の拘束が起きたのですか。どのような状況で拘束されたのですか?

2017年8月24日のウクライナ独立記念日に弟と自動車で休暇に出たのです。ウクライナの愛国者である私を、マリウポリ近くにあるアゾフ海沿岸のヤルタ町に招待した人がいるのです。5月以来、ずっと招待を受けていたのですが、しかし時間がなくて、ずっと延期していたのです。それで、ようやく行こう、と決めたのです。弟も家族との間でマリウポリに用事があって、彼の姪がマリウポリでパスポートを受け取らないといけなかったのです。オレニウカの通過検問地点まで行ったら、そこは全く行列がありませんでした。私たちの身分証明書が確認されると、脇に止まるように言われました。弟は身分証明書を返されましたが、私は車から降りるように言われました。弟は「行きなさい。あなたに用事は何もない」と言われましたが、私は待つように言われました。しばらくすると、トレーズからの「ドネツィク人民共和国国家保安省」の車が来ました。前に見たことがあったので、私はすぐにわかりました。彼らは私に、「よお、ミロスラウ・チャムシチーよ、はまったね。どこにいたんだ?こっちから来たのか、それともあっちからか?」と言いました。私がトレーズから来たと答えると、彼らは、トレーズでお前のことを探したが、家にお前はいなかったと言いました。そして、私は頭からずだ袋を被せられ、テープでぐるぐる巻きにされ、手錠をかけられ、連れて行かれました。私は、ドネツィク市に連れて行かれるのだろうと思ったのですが、実際の行き先はトレーズでした。そこで、以前ウクライナ保安庁(SBU)だった建物に入っているトレーズの「国家保安省」にて、私は頭にずだ袋を被せられたまま、片手を室内暖房器具に結び付けられ、3日間椅子に座ったままにさせられました。ずだ袋は食事の時も外すことが認められませんでした。私は、袋を唇の高さまで上げて食事をしていました。何も見えませんでした。

私は、自分の住まいの調査に同意し、私は頭にずだ袋をかぶらされたまま彼らと住まいに向かいました。彼らは私の建物から私のウクライナ国旗を奪い、冷蔵庫に私が採って保存していたきのこを見つけました。「たくさん採ったな、もうすぐ食べるつもりだったのか」と嫌味を言われました。一回目の拘束の際に、マキーウカの武装集団構成員「オプロト」集団によってぼろぼろされた時から持っている、私の血に染まった国旗も奪われました。あいつらは、建物の中の全てのものをひっくり返し、私のコンピューターのハードディスクや、海外渡航用旅券やコンタクト・ライン通行のために私がSBUで作った電子通行証などの身分証明書も奪われました。そして、渡された自分の鍵で私がドアに鍵をかけ、「国家保安省」へと戻りました。

そのトレーズの「保安省」建物には、私のかつての教え子がいました。私がハルキウ市場・マネージメント経済研究所の支部で教えていた人たちです。

私は、リゾートに行くつもり、休暇のつもりで荷物をまとめて来ていたのでした。だから、私が持っていたのは、簡単な荷物、布キレ、カミソリ、つまり、道中に必要なものだけを持って来ていたのです。そして、その「リゾート」は、2年半続きました。

その後、あなたはどこに送られたのですか?

私はシャフタルシクの一時拘置所へ入れられ、出歩くことの禁止された個人独房へ入れられました。3日間そこで、床を磨きました。また、コンクリートの床のところから、懲罰房に移されたり、夜には別のところに移されたりしました。その時は、他に拘留される人々がいて、彼らはひんぱんに入れ替わりました。中には「夜間外出禁止令」などに違反した者も入れられていました。彼らは、24時間あるいはそれより少し長い期間拘束されるのが通常で、私は彼らと話をして、色々な情報を得ていました。1度、自身の教え子と会ったことがあります。かつて学校で教えたことのある者でした。彼は、10年ぶりの私に気が付き、「オレフ・ハラジューク先生、どうしてこんなところにいるんです?あなたとここで会うなんて、思いもよりませんでした」と述べました。私は彼に、弟への伝言を頼みました。そんなこんなで、そこで私は長い間過ごし、最初「教授」と呼ばれるようになり、その後は「ソクラテス」とのあだ名も得ました。

その後、あなたは投獄されましたね。どこに入れられたのですか?

ええ、ただそれはもう少し後のことです。なぜなら、最初の30日間は拘留で、それは「行政逮捕」と呼ばれていました。この逮捕は、ウクライナ法に従ったもので、刑事手続法典の「犯罪組織・暴動との闘い」条項によるものでした。私は、シャフタルシクの独居房に入れられました。その後、頭に袋を被せられ、形式的な文書作成のためにシャフタルシクの病院へ連れて行かれました。その後、ドネツィク市、「保安省」、そこでやっと頭から袋が外され、尋問を受けました。そこから、ドネツィク市の独居房に3日間入れられました。その後、ドネツィク市の拘置所に入れられました。そこに、2019年9月24日までいました。その後は、マキーウカの第32収容所に送られました。

16年間の禁固刑「判決」

「裁判」はいつでしたか?

4回「公判」がありました。最初の公判までに、私は前もって裁判官と検察官の構成に関して要請書を書きました。なぜなら、裁判の構成には、ミンスク諸合意により、ウクライナ側との同意が必要ですから。その要請を私は、リュドミラ・ストラテイチュークという裁判官に提出しました。4時間彼女は、審議してから、要請を棄却しました。結局、彼女は最後まで一人で裁判を行ったのです…。最後の公判は、2019年8月7日で、その日の公判は、いつもより駆け足で行なわれました。その時、私は既に、自分が交換に出されることを知っていました(著者注:ロシア連邦とウクライナの間の被拘束者交換の対象者リストに入るという意味)から、判決に同意しました。それでも、私は、私に対する彼らの思いつきで捏造された断罪をぶち壊すための、非常によく練られた演説を用意していました。判決文は41ページでしたが、私がそれを目にしたのは、マキーウカの収容所に入れられ、判決が言い渡されてから3か月後のことでした。

公判には、私が(武装集団)「DPR」の「国境」を2015年に越えて、4か月間ウクライナ領のファスチウ市にいたことを証明する文書が提出されていました。しかし、裁判側は、その情報を考慮しませんでした。代わりに、捜査官は、私の案件を「捜査」したと述べ、私がずっと「DPR」のトレーザにいて、ラジオ・スヴォボーダ通信へ記事をそこで書き続け、その後フェイスブックにその記事へのリンクを貼っていたと主張しました。彼らは、私のフェイスブック・アカウントのスクリーンショットを撮っていましたが、それ以上には何も持っていませんでした。たった10枚のスクリーンショットだけをもとに、私に対する断罪の全てが作り上げられていたのです。更には、フェイスブックの投稿へのコメントにも注意が向けられていました。それは、言うまでもなく、法への冒涜です。

「DPR」にて、どれだけの「刑」が言い渡されたのですか?

私に言い渡されたのは、16年の禁固刑です。その内、4年が過激主義によるもので、その条項での最長刑期です。それから4年が民族的嫌悪のマスメディアへの流布、4年が私が一人でなく、アンドリー・デフチャレンコ(ラジオ・スヴォボーダ通信の記者)との共犯したこと、そして、更に4年がスパイによるものでした。加えて4年間、マスメディアへの執筆禁止というのもありました。

彼らの言うところの「民族的嫌悪の流布」というのが何だったのかというと、例えば、私が「DPR」と書くときに、いつも“DPR”のように引用符で囲んでいたのですが、彼らはそれを、私が「共和国」の領土一体性に対して疑問を持っており、「DPR」国家の存在そのものに対して疑念を抱いていることを意味する、とみなしていました。しかし、ご存知の通り、ロシアですらその存在を認めていないのです。他には、プーチンについてのコメントで、例えば「クレムリンのちび」と呼んだりしたことについて、私があたかも、全てのロシア国民の尊厳を害し、国家としてのロシアの未来に疑問を抱いた、と言われました。更に私がロシアの人道車列について、シリアで破壊された人道車列と同じ運命を辿れば良いのにと書いたことも指摘されました。それも「民族的嫌悪の流布」と過激主義に該当すると言われました。スパイというのも、どこかから適当に持ってきたもので、全く現実とは関係のない、実証も何もなく、捜査も行われていないものでした。具体的には、トレーズの私の家から25キロのところに、訓練場があるのですが、彼らは、あたかも私が家からそこの銃撃訓練を見ていたというのです。25キロ離れたところの機関銃の銃撃など、物理的に私は何も見えません。しかし、彼らにとってそれはどうでもいいことだったのです。

「DPR」裁判官のストラテイチューク氏は、私に判決を言い渡す時、私に何も分からないような形で、急いで5から10まで読み上げていました。実質的に彼女は判決を読み上げていないのです。私に手錠がはめられたとき、彼女はそばに来て、「私は20年でも40年でも言い渡せるのだけどね」と言い捨てていました。

拘束生活の中で教えたスペイン語

そして、あなたの拘束生活の最後の場所は、マキーウカ収容所だったわけですね。被拘束者交換について知ったのはいつですか?

そう、そこに送られたのは、2019年9月24日でした。その時、既に私の交換が準備されていました。

実は、2018年3月、「保安省」に連れて行かれ、更なる尋問が行なわれた時に、私は交換の確信を得ていました。「イゾリャーツィヤ」という、ドネツィク市の、かつてアート空間だった場所に作られた牢獄があるのですが、私はそこで拷問が行なわれているのを知っていました。そして、「保安省」にて、彼ら(武装集団構成員)が、我々はもう人々に対してかつてのように暴行をふるってはいない、「DPR」はもう変わった、文化的な共和国になったのだ、などと言うので、私は、「嘘をつくな」と述べたのです。その時私は、「あなた方は人を殴っている、イゾリャーツィヤで拷問しているのを知っているぞ」と言いました。すると、彼らは、非常に驚いて、「オレフ・ハラジューク、どうしたのだ、お前は交換しない方が良いということか?お前は全部知っているのだな」と言いました。その「お前は交換しない方が良いということか?」のフレーズで、私は自分が交換リストに入っていることを知ったのです。

あなたの拘束については、ウクライナ政権側はどうやって知ったのですか?

かつて拘束され、解放されたヴァレリー・ネドシェキンが、伝言を伝え、私がドネツィク市の拘置所にいることを知らせました。私は、ジャーナリストたちが、私の失踪について公式声明を出したことを知っています。ラジオ・スヴォボーダの記者たちも私の失踪につき声明を出しました。

拘束時の状況はどのようなものでしたか?どのような食べ物が出されれていたのですか?

拘置所では、食器も一切出されませんでした。ただ、後になって、私たちの身分証明の書かれたカードを見ると、私たちにはスプーン、コップ、シーツ、手ぬぐい、クッションが出されたことになっていたことに気がつきました。全部出されたことになっているが、私たちはそれを見たことはありませんでした。実際は、私たちウクライナの愛国者たちは、みんなで色々な物を共有していたのです。誰かのところにはプラスチックのスプーンが、誰かのところにはプラスチックの皿がありました。私は、拘置所に入れられたときに、ヴィクトル・ハラマジュークという、私と似た名字の人物が、私に自分の持っていた物をくれました。この男性は、被拘束者交換を待ちきれず、手術が必要となりました。彼が亡くなりつつあった時、彼には腹部に病気があって、人々は彼はもう助からないと分かっていました。それで、彼は、自宅に送り返されました。彼は、妻の腕の中で亡くなったのです。

ところで、拘置所では、もう一人ウクライナの愛国者である、ビジネスマンのヴァレリー・ハルチェンコが亡くなっています。彼は、妻の代わりに拘置所に入れられた人物です。彼の妻がツイッターに投稿したことが理由です。彼も、交換には加われませんでした。

拘置所は、灰色の空間で、ねずみが走り回っていました。

食事は最悪でした。セヴェロドヴィンシクからの冷凍の魚が持ってこられました。私のところには、その魚の入った箱のシールが取ってあったのですが、捜索の際に取り上げられてしまいました。その魚から作った何かしらの臭い混ぜ物が出されていました。部分的に生だったり茹でられたりしていましたが、多分、解凍しきってなかったのでしょう。もしあなたが「素敵な」囚人だったら、タバコを渡すことであなたのために魚を焼いてくれることがあります。ジャガイモのピューレも出されましたが、しかし気持ち悪い味で、食べたら、胃が機能停止するようなものでした。鶏肉も出されましたが、羽と一緒に茹でられているときがありました。玉ねぎは3か月に1回出されましたが、夏以外の季節だけでした。夏は玉ねぎは出されない季節でした。玉ねぎも皆に出されるのではなく、玉ねぎを巡って闘わなければならず、タバコを渡さなければいけませんでした。茹できっていない大麦も出されて、それは良く噛まねばならないもので、そのせいで歯がやられました。それで私の差し歯ががたがたしているのです。ところで、そこには歯医者なんてものは全然ありません。そこでは、感染が怖くて、歯を抜くことも恐れられていました。

差し入れは、弟が月に一回持ってきてくれたのですが(それは通常毎月22~24日でした)、私たちはそれを一か月間大切に食べました。お菓子一つを二日間に分けて食べたのです。

牢屋での助けとなったのは何でしたか?

助けになったのは、私がスペイン語を拘置所で教えていたことです。教科書を持っていたのです。また、バーベル上げなど、筋トレをしたりしました。日記も書いていました。ただ、あとで全部取り上げられてしまったので、残っている日記は一冊だけ、少しだけです。それから、反プーチンのスローガンをスペイン語で書いていました。

そういえば、毎朝ロシア語の国歌が流される時には、私はウクライナ語の国歌を歌って邪魔してやりましたよ。

拘置所での情報へのアクセスはどうでしたか?

ドネツィク市の拘置所にはテレビがありました。私たちは、ウクライナのチャンネルを映そうと頑張っていました。時々数分間だけ写ることがあって、ほらあの「UA」(編集注:公共テレビ)が写りました。天気が悪い時に、一回だけ5チャンネルが写ったこともあります。他には何も移りませんでした。そのため、ロシアのテレビから情報を得て、それを分析していました。例えば、私は、哲学的分析で、実際の状況を大なり小なり想像していました。マキーウカの収容所に入れられたときはもう、T2受信器があって、自由なウクライナ領のアウジーウカが近いもので、そこではICTV局や1+1局が入っていました。でもそこではそれらのチャンネルは見られていなかったので、私たちは、テレビのあるホールで、色んなスキャンダルを起こさなければなりませんでした。

マキーウカの収容所には、2019年9月24日から、私たちが交換された2019年12月29日までいました。

交換の日と将来の計画

それから、交換が行われた…。

そう、最初クラマトルシクからチュフイェウまで飛行機で運ばれ、それから別の飛行機に乗り換え、ボリスピリに到着したのです。飛行機の中で、私はヴァシーリ・ストゥスの詩「大地は我らの足元で揺らぎ、空はあたかも幻想のようだ…」を呼んでいました。それから、フェオファニヤ病院へ行きました。今私は、キーウ(キエフ)から104キロ離れた退役兵リハビリセンターにいます。そこで歯を治したいのです。

これから何をしようと計画していますか?

本を書きたいですね。名前は「オレフ・ハラジューク 拷問からスターへ―哲学者のウクライナ東部戦争についての思い」にしようかと。カントには、脱帽する二つのことがありました。一つは、星空。もう一つは、私たちの心の中の倫理的ルールです。つまり、星を見ることの出来る者のモラルは高いということです。

あとユーチューブで授業をしたいです。自分で独立して仕事をしたいですね。編集はなしで。一人でボスになって、好きなように書くのです。

授業もしたいです。私は、古典哲学の専門家で、ギリシャ語もラテン語も知っています。しかし、汚職のはびこる大学では教えたくないです。汚れたくはないのです。ウクライナ語で、古典哲学の教科書を書きたいですね。もう一つの計画は、ウクライナの代替的歴史を書くことです。例えば、ウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人が兄弟民族だとかいう、「伝説」を壊してやりたいです。だって、一つの民族なんかどこにもないのですから。

自由こそが人間の最高の価値

住むところは?

樽に住んでいたディオゲネスをならって、テントを買ってそこに住むことに決めました。そのテントでウクライナやヨーロッパを回るのです。それが私の住処になります、カタツムリみたいに。

毎月8000フリヴニャとかそれ以上のアパートの家賃は払えないですよ。つまり、お金を払ってまで維持したい物はないのです。自分のテントがある方が良い。

国家は何も提示していませんか?

今のところは何も。そもそも私は、どんな政権にとっても厄介者なのです。

二回の拘束の経験は、人生に対する考えを変えましたか?

もちろんです。私は、人にとっての最高の価値あるものは、自由だと思っています。以前は、家、家族が重要で、価値あるものだと思っていました。今、2年半の拘束を経て、自由に何よりも価値があると思っています。なぜなら、あなたが自由なら、動けるし、引っ越せるし、好きなところに飛んで行けるし、どこに根を張ることもできるのですから。

ドンバスの紛争の解決はどうしたら良いと思いますか?

うーん、思うに、膿みの溜まったところを掘り返さないといけませんね。2014年時点に浅かった膿みは、大きな膿みのかたまりに変わっています。だから、私は、軍事的で、迅速な介入なくして解決はないと思っています。この膿みのかたまりを掘り返す、医者が現れないといけない。そして、一人一人の医者の課題は、体内の奥にこの膿が入り込んでいかないようにすることで、その体とは、私たちのウクライナのことです。できるなら、この膿を、もと来た場所であるロシアへ、追い返せたら良いですね。

オレーナ・コルフシェヴァ

オレーナ・コルフシェヴァ

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