イェウヘン・フェドチェンコ報道真偽検証団体「ストップ・フェイク」共同創設者
私たちは、世界の「気付き」のレベルを高めた。
29.11.2019 17:01

トルコのアンカラでは、最近、「情報戦争 ウクライナの挑戦」とのテーマでフォーラムが開催された。そこでは、現地専門家、諸国の外交官、大学生、ウクライナやクリミア・タタールのコミュニティ代表者が出席し、過去5年間、ロシアの偽情報や偽報道(フェイク・ニュース)にウクライナがどのように対抗してきたか、今ウクライナがどのような挑戦と向き合っているかにつき報告された。

ウクライナの首都キーウ(キエフ)からは、モヒラ大学のジャーナリスト・スクール校長であり、報道の真偽検証を行う団体「ストップ・フェイクStopFake.org)」の共同創設者、政治学博士のイェウヘン・フェドチェンコ氏が出席していた。フェドチェンコ氏は、ウクルインフォルムへのインタビューにて、現在のウクライナのメディア空間に対する考え、政治的決定採択へのメディアの影響力、ロシア発情報攻撃への対抗、情報面での防御策について伝えた。


「より早く、より多く、より安く」の原則による報道は、偽情報にこそ都合が良い

フェドチェンコさん、あなたはウクライナのメディア空間、市場をどのように見ていますか。

現在、ウクライナのメディア空間は、変化の過程にあります。伝統的に「オリガルヒ(大富豪)所有」と呼ばれている、大型テレビ局の影響力が縮小しており、それに代わる別のデジタル・メディアが出現しています。一方では、それは肯定的なことです。他方では、それはまだ、視聴者が情報へのより大きなアクセスを得ているというわけではなく、以前より情報のバランスが取れているとか、偽情報から守られているということも意味しません。

例えば、私たちは、メディア・リテラシーの向上のために、メディアを誰が所有しているかが重要だと説明します。しかし、それは全ての問題への回答とはなりません。ウクライナのメディアの所有者はオリガルヒですが、どの国にもテレビ局を所有する者がいると言われます。メディアと政治とビジネスが一体化しているのは、ウクライナに限ったことではないのです。問題は、そのことがどんな風に情報の質に影響を与えているのか、その結果人々が何を受け取っているのかにあります。私は、情報源が増えて情報量が増えたことをもって、情報の質が良くなっているとは言いません。

情報があること自体は、人々が情報を探すことを意味しません。私は、よく冷戦時代の状況と比較しますすが、当時は、情報を伝えることが決定的に重要で、人々が情報を得られるようあらゆる障害を排除してきた時代でした。今は、情報は大量にありますが、人々はこれまでに属していたパラダイムに留まり続け、最もシンプルで、最もセンセーショナルで、最もワイドショー的なメディアを消費し続けています。

そもそも、独立した情報源なるものはあるのでしょうか。そのようなものの存在を信じることは、ユートピアなのでしょうか。例えば、マスメディアが購読者の支払いによって運営されるというような。

実際のところ、それはほぼユートピア的な考えです。ウクライナに限らず、多くのメディアが現在有料コンテンツに移行するか、無料と有料の両方を有しています。報道機関は、そのようにして支出の一部を埋めているのですが、しかしそれは問題の解決にはなっていませんし、広告収入の代わりにもなりません。そのような有料モデルを作ったメディアの多くが、結局閉鎖してしまったという事例が多くあります。

そのモデルが生き残れるのかどうかは予測困難です。なぜなら、人々の周りに大量の無料情報がある場合、人々は何のために情報にお金を払うのか、という疑問を抱くからです。フェイスブックのタイムラインを見ると、そこには皆が何かを伝えています。そこでは、誰がどこで書いたのか、その情報は信頼できるのかは重視されません。それが重視されないことで、情報が消費され、拡散されるのです。時には、リンクは開かれさえしません。それは有料無料の問題ではなくて、消費者が無駄な行動を取りたがらないということなのです。

人に確認の取れた情報源の価値を理解してもらうには、大型メディアが大きく妥協しなければなりません。例えば、信頼されるジャーナリストの記事のみ読めるようにするというようなことです。そのようになるのは、人々が誰でもかれでも信頼するのを止めた時かもしれません。そうすると、出来事と人々の間の仲介をする人々への需要が生じます。信頼される仲介者、分析能力のある人物への需要です。それはもはや、情報そのものへの需要ではなく、記者による付加価値への需要となります。その付加価値とは、分析、インサイダー情報、視点の独自性です。これらは以前はそれほど必要とされてこなかったものです。

以前は、概して、ジャーナリストが情報を集め、人々が結論を下していました。しかし、現在人々は結論を下さず、視聴者は思われていたほど賢いわけではなく、需要のレベルも相当に低く、ジャーナリズム自体も需要の速度に追いつけていないという状況を私たちは目撃しています。私たちは、ジャーナリストの行動についての鉄則を持っており、世代から世代に伝えているのですが、しかし、その鉄則がもはや機能していないのに、私たちはそれを伝えているのです。別の何かが必要となっています。

別の何かとは?

まだわかりません。分かっているのは、これまでのものが機能していないということですが、何が新しいものとなるのかは今のところ不明です。そこに全ての問題があります。もしかしたら、ジャーナリスト達自身が本件につき何らかの提案しなければならないのかもしれません。既に、記者の役割は、誰かの言葉を書き起こして伝えるだけでは済まなくなっています。「付加価値」情報を与えなければならず、それは時間とより広範な能力を要するものです。しかし、それは「より早く、より多く、より安く」と述べるような今の政治経済的なメディアとの間で、矛盾を起こします。そのようなメディアの手法は、偽情報にとって都合の良い環境を作り出しています。「より多く、より早く、より安く」、これが意味するのは、ジャーナリストが情報を扱う際の作業の時間を最小化することを意味しますが、それはその情報の質に影響を及ぼします。

視聴者が「ファクトチェック(真偽検証)」をするようになることが期待されますが、しかしウクライナのジャーナリストはしばしばチェックを怠っています。それもまた逆説的なことです。以前は、ファクトチェックは報道にとっての当たり前の仕事の一部だと思われていましたが、今は、別の活動に分類されているのです。記者に情報のためにより多くの時間をかけさせ、より深く、質の高い仕事をさせ、基礎の上に成果を建てることができるようにしなければなりません。

最近、ファクトチェックをテーマにした会議に出席しましたが、そこでは記者たちはよりシンプルで市民に近くあるべきだとの指摘がありました。私は、そのようなアプローチが良いかどうか、全く確信が持てません。私たちの提案が需要を定めるのです。私たちが何も提案しなかったら、視聴者側からは何の需要も生じません。私たちが提案していけば、最初は受け入れられないかもしれませんが、遅かれ早かれ、状況に適合し、視聴者を獲得することになるのです。

ウクライナのメディア市場が視聴者へ提示する選択肢は、狭い

最初は受け入れられないかもしれないが、後には適合するだろうというのは、何か例がありますか?

例えば、公共テレビです。公共テレビは、現在視聴率が低いですが、しかし彼らはこれまで民間のテレビ局が一度もしなかったことをしています。クラシック・ミュージック、児童向け番組、夜の昔話等です。シンプルなものですが、しかし、それらでお金を稼ぐことはできません。

ウクライナには、クラシック・ミュージックだけを流すラジオ局というのはまだ当分現れないでしょう。ウクライナでそのような需要を有す視聴者層は、フィルハーモニー一個分程度の規模でしょう。その視聴者のために、個別のラジオ局は作られないのです。しかし、公共ラジオは、それを放送しています。

「文化」チャンネルを含め、「ウクライナ・ラジオ」(編集注:公共ラジオ)は、私にとって発見でした。それは、私が朝から晩まで聞き続けられる放送です。私はそれまでは偏見を持っていたのですが、こんなにも変わったのか、と心地よい驚きをもって受け止めました。彼らが行っていることは、民間テレビやラジオでは、私が物足りなさを感じていたものなのです。

メディアにおける「ニッチ」は重要です。それは多数派と少数派の間の関係に関わることです。これまでの研究によれば、視聴者層がニッチであればあるほど、その層は(情報源に対して)信頼を抱き、コンテンツ発信者と視聴者の関係はより長く続く傾向があることが示されています。

ウクライナのメディア空間は、普遍的で、全ての人を対象としています。そのようなモデルは、全国で放送されるテレビ局のものです。現在、ウクライナの視聴者の選択肢は、とても狭いのですが、それはテレビ局が皆同じような放送をしているからです。ニュースも同じ、ニュース以外の番組も同じです。重要なのは多様化なのですが、その多様化のためのお金を誰が払うのでしょうか?視聴者が払うのか、定期契約者が払うのか、それとも他の誰かか。そこで「他の誰か」とは一体誰なのかという問題が生じるのです。

ロシアの報道機関をウクライナ・メディア産業へ戻すことを認めるべきではない

最近、大統領令「改革実施・国家強化に関する諸方策」が発出されましたが、当初同大統領令は批判されて、その後説明が出されました。その説明によれば、どうやら合理性はあるのだとか。そもそも、大統領令によってそのようなものが規制できるものなのでしょうか。

私が説明から理解した範囲では、それはロシアによる情報空間占有の再来を招かないよう、メディア所有を規制する内容でした。更に、偽ニュースとの闘いにも関わっており、法のレベルで規制の規範を確立するというものでした。

一方では、私は、どちらのイニシアティブも支持しています。ロシアのメディアを(ウクライナのメディア空間に)戻すことは看過し得ないし、ロシアがウクライナのメディアを所有することも同様です。それらは現在、ウクライナにとって全くもって死活問題ですから。また、私はフェイク・ニュースにも反対です。しかし、全てはそれらの実現の仕方に左右されるものです。それが問題を解決したいということなのか、それとも何らかの政治的問題の解決を隠しているのか。それらは二つの別のプロセスであり、それぞれに対して異なる評価があるでしょう。ですから、(今回の大統領令に)懸念するというのは、全くもって当然の反応です。

他方で、何もしないというわけにもいきません。法制レベルでメディア市場におけるロシアのプレゼンスを規制しなかったら、全て個別対応することになるし、とりわけ政権幹部が変わる度に対応が変わってしまいます。法的に確定することは、より持続可能なシステムを生み出すことになります。

前の最高会議にて、「反フェイク法」執筆の可能性に関する公聴会がありました。私も招待されていたし、最初はそのイニシアティブを支持していましたが、後になっていくつかの議員から以下のような主張を聞きました。彼らのアプローチはこうです。「私に関して否定的なことばかり書かれる。それはフェイク・ニュースであり、禁止して閉鎖しなければならない」と。その時、私は、私たちにはそのような法律について話すのは時期尚早であり、延期すべきだとの考えに至ったのです。それは、必要が政治的現実や政治的文化と絡んでしまう事例です。

同時に、自己規制というのも私たちにとっての「出口」にはなりません。視聴者全体を自分で何とかするように放っておく、というのは機能しません。「ジャーナリストは賢いから、勝手に自らを規制する」というのも、機能しません。ジャーナリストはしばしば自分に得になるよう、分かりやすいように行動するものです。例えば、エストニアで(ロシアの)スプートニクの職員募集に誰も応募しなかった、という状況がありましたが、ウクライナではそのようなことにはなりません。

ですから、私たちにとって、最初にすることはロシアのメディアのプレゼンスの規制です。現在、今ある規制を排除して、過去同様にウクライナで彼らが活動できるようにする試みが行われていますが、私たちは、それを見逃してはなりません。ウクライナは、ロシアのメディアを制限したことで以前批判を受けました。しかし、どの国も、誰がどのように自国領で活動できるのかを決めているのです。

メディアが親露勢力に属しているのか、ロシアそのものに属しているのかの間に違いはありますか?

形の面ではありません。しかし、ウクライナには、3つの親露メディアがあり、それらが影響力を持っていますが、完全にロシアのメディアというものはありません。完全にロシアのメディアというのは、国家安全保障国防会議の提案で裁判所が閉鎖しました。それ以前は、ウクライナには82のロシアのメディアが活動していました。現在の3つの親露メディアには、当時の82のロシアのメディアが持っていたような影響力はありません。当時ウクライナのメディア産業は全て、彼らの支配化にあったのです。

それらロシアのメディアを戻さないことは、国内産業の保護にもなります。現在、メディア産業の全ての分野において、ロシアのプレゼンスが制限されていることのおかげで、ブームが生じています。映画、ラジオ、音楽産業、出版。もしロシアが戻ってきたら、それらは、全て瞬時に止まってしまうでしょう。本件において、割り当て制やロシアの書籍の市場への制限は重要なのです。総じて、これらの方策は、ウクライナのメディア産業の発展に寄与し始めています。

確かにどれもまだ不完全なのですが、しかしそれはウクライナのメディア産業です。その産業は部分的に親ロシア的要素、更には反ウクライナ的要素を持ち得るでしょうが、しかしそれは部分的であり、メディア・システム全体がロシアのシステムに抑え付けられるわけではないのです。ロシアのシステムは、いずれにしてもウクライナより大きく、そこには国家が資金を投入しており、影響を及ぼすために際限なくそのシステムを維持し続け得るのです。

いずれメディア産業へ投じるロシアの資金が尽きる等と期待するのは誤りです。ロシアは必ずどこかから資金を見つけてくるでしょう。なぜなら、自分達にとって有益なシンボルや考え方を生み出すようなメディア産業を維持することの重要性を、彼らは理解しているからです。彼らは、その点を非常によく理解しています。

ウクライナは、バルト諸国を例にして、歴史的言説を作り上げるべき

シンボルや考え方というのは、時間が経過したとき、どのように変わっていくのでしょうか。例えば、2014年以降、フェイク・ニュースも変化しているのですか?

脱共産主義政策と第二次世界大戦を見てみましょう。脱共産主義では、過去5年間、ウクライナがソ連の歴史的言説から国を脱させることに成功しましたし、多くの場面で、歴史的シンボルを取り除きました。以前は、ウクライナ独立から20年経過してなお、私たちはソ連、ソ連史で包囲されていました。そこで重要なのは、日付、祝日、記念碑、通りの名前、重要人物、歌、音楽といった、全てです。5月9日を「戦勝記念日」から「追悼の日」に変えて、ソ連のシンボルから赤いケシの花を使うようになったこと、それは素晴らしいアイデアです。

現在、ロシアは、「大祖国戦争」、闘い、ウクライナ、その戦争でのウクライナの役割についての言説を以前のように戻そうとしており、「伝説」を強制し続け、自分にとって都合よく、実際にあったことを矮小化し続けています。もしウクライナがこの鎖から完全に逃れることができたら、それは決定的な一歩となるでしょう。

それを他国はどのように行っていますか。

例えば、バルト諸国は、自らの国家誕生の100周年を祝うという非常に重要なことを行いました。彼らの視点では、彼らの100年の国家は、ソ連の占領によって妨害されたということになります。私たちは、このようなアプローチを受け入れるべきでしょう。私たちは、私たちの独立は1991年に始まったといいますが、しかし実質的には、100年前には始まっていたのです(編集注:ウクライナ人民共和国のこと)。私たちが国家性を失ったことは、全く別の話です。私たちは100年以上前に国家を得ていた。それが重要です。それを認識することで、歴史プロセス上の独立した主体となるのです。

リトアニアに行ったとき、国家成立100周年が祝われていました。この「100」という数字は、あちこちにありました。議会にも、大統領府にも、外交関係施設にも。そして、関連する外交行事がたくさん行われていました。このようにして、個別の言説を打ち立てているのです。それをウクライナも行い続けなければなりません。国家記憶研究所は、批判を受けつつも、それをうまく行っていました。私たちは、また「過去は重要ではなく、未来が重要だ」というようなアプローチも拒否せねばなりません。過去は重要ですし、再形成すべきです。そうでなければ、私たちは、今後もこれまでの従属的歴史的言説の中にあり続けることになります。

しかし、100周年は過ぎてしまいました。

年月ではなく、アプローチが使える、という意味です。それは一回きりの出来事ではないのです。私たちが独立を失った年も近づいています…(編集注:ウクライナ人民共和国は、1921年にポーランドとソ連の結んだリガ条約にて領土を失い消滅している)。

私たちはフェイク発生源であるロシアの報道機関の信頼を失墜させることに成功した

「ストップフェイク」について教えてください。何人がそのプロジェクトで働いていた、どのような手法を用いて、どのように監視を行っているのですか?

現在、45名が働いていて、彼らの作業はいくつかの方向に分かれています。一つは、ファクトチェック(真偽検証)をするチームで、情報の検証を行っています。一つは、言語編集部で、外国メディアとも連携しています。他には、ソーシャル・メディアや動画を担当する人たちもいます。また、(ドネツィク州)クラマトルシクに拠点を置く別働チームもありましたし、必要に応じて現地で視聴者と働く編集者たちもいました。現地で新聞を配っていたのですが、しかし私たちはこのプロジェクトを閉じました。私たちが通常モニターする報道機関のリストがあります。主にロシアのテレビと通信社です。

ニュースを見て、その中で報道基準に合わないような兆候があれば、検証対象になります。例えば、引用、統計データ、翻訳の正確さなどです。オリジナルを探して、確認します。どのようなインタビューも部分的に引用することで強調することができます。どの事例にも、独自の特徴がありますが、しかし、主要なアルゴリズムは、疑わしいコンテンツを取り出し、検証することです。時には、視聴者側が私たちを助けてくれることもあります。彼らが、私たちにリンクを送り、検証を依頼するのです。ウェブサイトには、「フェイクを報告」というボタンが設置されています。

頻繁に送られてきますか?

2014~15年は、非常に多かったです。当時は、私たちは全て検証するのに精一杯でした。現在は当時より少ないです。偽ニュースも、その構造面からより複雑になっていますし、以前たくさんあったような、明らかな偽情報というのはもうありません。

「吊るし上げられた少年」のような例はもう「製造」されていないのですか?

そのようなのはもうありません。過去のことです。それは一回きりで、大騒ぎになり、目立ちました。現在は、もっと繰り返し的な性格を帯び、異なる思考を促すべく、小さなことを歪曲しています。その小さな歪曲を何層にも積み重ねて、大きなものにしているのです。人々が検索システムを使った時に、大量の類似情報を目にすると、それがその情報を「真実」だと受け止める前提条件となります。しかし、その大量の情報の中に、複数の見方を目にすれば、より批判的な思考や確認行為を促します。それこそが、偽ニュースを見つけて修正することが大切であることの理由です。

特によく覚えていること、調査について教えてください。

そのような話は、とてもたくさんあります。当時、私たちの活動は賭けに満ちていました。当時、私たちは、ほぼ直感で行動していましたが、その後プロセスがより概念化され、何千の例を重ねる上で、何のために、どのようにこれを行うのかについての理解が生まれました。

最初は、それぞれのストーリーに自ずと価値がありました。例えば、戦闘の始まるよりずっと前、ウクライナ・ロシア間国境に行列が出来ているというストーリーがありました。それは何千何万の難民がウクライナを去って、露ベルゴロド市に向けロシアに入国しようとしているという内容でした。私たちがスクリーンショットを拡大してみると、それはウクライナ・ポーランド間国境の行列の画像だということがわかりました。私の同僚は、ロシアのベルゴロド州の移民局に電話をかけ、何人が訪れたかを確認しました。受け取った回答はこうです。「誰も来ていない。ゼロだ。しかし、モスクワの幹部からは、準備しろと言われている。」このように私たちは情報を否定し、国境で何が行われているのかを知ったのです。

最初は直感で行動していた、今はより概念化されていると言いましたね。何かしら具体的な例がありますか。

ええ、今はもっと練られたモデルがあり、何を誰にどのように示すかという理解があります。それは、ジャーナリズムにとっての最重要ルールである「読者層を知る」ということです。私たちは当時、より専門家空間を対象にしていました。偽情報の否定がどれほど広範囲の読者層にとって面白いものか、私たちは想像さえできませんでした。私たちが何か誤りを正すこと、フェイクを暴くこと、それがジャーナリズムの個別のジャンルとなったのです。

最初は、私たちのウェブサイトはロシア語版だけでしたが、その後英語版を作り、今では13の言語で運営されています。

信頼あるウクライナの報道機関の活動もサポートしていますか?

異なる視聴者層に受け入れられるには、様々なメディア団体と協力する必要があります。なぜなら、それが情報空間における自身のプレゼンスを高めるからです。私たちを恒常的にフォローする人々がいますが、しかし私たちは新しい視聴者を得たいと思っています。私たちは、例えば、市民テレビ(フロマツィケTV)や市民ラジオ、エスプレッソ、地域メディアと協力しています。それにより、私たちは、ファクトチェック(真偽検証)文化を広めてきたのです。それは、報道機関へもそうですし、視聴者層に対してもそうです。

それは、啓蒙活動の一つです。メディアに対する漠然とした不信感を生み出すのではなく、批判的思考、情報のチェックを促し、それを自分の周りの人たちとの対話で広めていく、というものです。この並行的な協力が私たちにとって非常に重要なのです。

「ストップフェイク」という表現自体が、幅広く使われるようになりました。巨大なリソースを持つロシア連邦の情報面の影響と対抗するためには、私たちは、ウクライナ国内に限らない、多くの団体との努力を団結しなければならない。私はこのことを強調するのを止めません。

今は、ハイブリッドな挑戦の時代であり、それは同時に、ハイブリッドな回答の時代でもあります。人々は、直線的な対照的回答を期待していたのでしょうが、受け取ったのは非直線的、非対称な回答、ハイブリッドな回答だったのです。私たちは、世界の「気付き」のレベルを高め、フェイク発信源となっているロシアのメディアの信頼を壊し、周辺化したかったのです。それには成功しました。今では、ロシアのメディアと偽情報は、常に隣り合わせのものと思われています。

しかし、どこでスピーチをしても、自らの情報空間に留まって暮らし続けている人には出会います。

例えば、その「吊るし上げられた少年」のケースで言うと、もう誰にとってもそれが偽ニュースであったことが知られていると思っていました。しかし、違ったのです。その話を聞いたことがないという人には何度でも会いますし、反対に、聞いたことがあり、それを真実だと信じている人もいるのです。現実はそのようなのです。

そして、もちろん、挑戦と向き合うには、政府内に政治的意思が必要です。2014年には、それはどこにも全くありませんでした。なぜなら、当時侵攻以外に、それ(偽ニュース)が重要な問題だということへの理解がなかったからです。後になって、理解が生じたのですが、時間と資金の面に、非常に大きなズレがありました。

偽情報との対抗において、簡単な決定はない

ウクライナ全体、とりわけ情報分野は、2014年とはもう異なるのだという確信があります。

それは確実にそうです。ロシアのメディアへの信頼は失墜しています。NGO国家民主研究所(National Democratic Institute、ワシントン)の同僚が非常に興味深い研究をしています。彼らは、同じフェイクニュースを用意し、被験者に一方にはロシアのメディアや政府のサイトへリンクを貼り、もう一方は全くリンクを貼らずに提示しました。すると、後者の偽ニュースの方が信頼が大きかったのです。彼らは、正しいニュースに関しても同様の調査を行いましたが、ロシアの報道から発せられたとするものに対しては、一切信頼が集まりませんでした。

私たちは、このような反応が長期的なものなかもしれないし、あるいは状況に応じた一時的なのかもしれないということを理解しておかなければなりません。全てが非常に簡単にひっくり返るかもしれないし、信頼のレベルも限定のものかもしれないのです。仮に人々が、タイムラインで同じ内容のニュースを見たとき、つまり自分の知人がそれを読むことで流れてくる情報を見た際には、そのニュースへの信頼のレベルは自動的に上がります。

ソーシャル・メディアにおける情報の流れは、自分の周りの人々が読むものに限定してしまうので、概して、実際の世界と自分を乖離させるものでしょう。それはどうやって解決すればよいのでしょうか?

私は、次のように解決しました。私のツイッターは、様々な視点を得るようにしています。反対に、フェイスブックは、自分にとって快適な周辺の人々です。例えば、フェイスブックを開くと、そこには、「裏切りだ、裏切りだ」とメッセージが飛び交います。ツイッターを開くと、そこでは裏切りだったり、勝利だったり、と世界は多様になり、別の問題も存在しています。いつでもそうなのです。人は話した人から影響を受けるものです。

ウクライナ人達に、特にフェイクニュースとの対抗の面で、情報的抵抗力を高める上での基本的な3つのアドバイスを教えてくれますか?

第1に、シンプルな決定を捜し求めないこと。なぜなら、シンプルなものは、シンプルな回答をもたらすのですが、そのようなものは今日存在しないからです。もし誰かがあなたにシンプルな回答を提案してきたら、疑いなさい。メディアや政治でのシンプルな決定は、ウソです。実際には、全てのことが複雑なのです。

第2に、情報を多様化させてください。自らのソーシャルメディアのタイムラインを離れて、あなたのところに拡散されてくる二次情報だけでなく、一次情報に触れるようにしてください。

最後にもう一つ。たとえ困難であっても、しかし、私たちが解決できないものは、今のところ何もないということを言いたいです。私たちが現在抱える問題の大半の解決、とりわけ、コミュニケーション分野のものは、私たちの行動にかかっています。もし情報に注意を向ければ、その価値を理解することができ、政治的行動への責任を追及でき、それがどのように作用するのか理解できます。それは有益なことです。そして、それが私たちの政治システムを保障し、私たち自身を非常に不都合な決定から守るのです。

オリハ・ブドニク、アンカラ

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