オリハ・ムサフィロヴァ露「ノーヴァヤ・ガゼータ」新聞記者
ウクライナが成功する秘訣は、ロシアとは何も一緒に行わないこと。
06.10.2018 01:00

オリハ・ムサフィロヴァは、ロシアの新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」のウクライナ特派員である。私と彼女の間では、私達は「ティ」(親しい間柄の二人称)を使う。なぜなら、かつて「コムソモリスコエ・ズナミャ」新聞で一緒に働いたことがあるからである。今、彼女と話すのは、「彼女の話に興味があるから」ではない。「話さないといけないから」である。なぜなら、彼女は、ウクライナのヴィンニツャ州で生まれ育ち、ウクライナ東部ドンバス地方で働き、キーウ(キエフ)で働き、その後、現在までの非常に長い期間、モスクワで5本の指に入る新聞社の特派員として勤務しているからである。最初は、コムソモリスカヤ・プラウダ紙で、それから2011年からは、ノーヴァヤ・ガゼータ紙で働いている。「ノーヴァヤ」は、たぶん、今日、ロシアのマス・メディアの中で、唯一、所属しても恥ずかしくない新聞だろう。


オリハ、私とあなたは、長年知り合いで、一緒にロシアの「コムソモリスコエ・ズナミャ」編集部で勤務したこともあり、いつもロシア語で会話をしてきました。でも、今、私たちは、初めてウクライナ語で会話をしています。困難ですか?慣れないですか?

困難でないのは確かです。私は、ウクライナ語の方が語彙が少ないですが、それはロシア語の家庭で育ったことと、職場環境、私がロシアのマスメディアで現在まで働いているからです。でも、同時に、私は、ウクライナ語を子どもの頃から知っているとも言えますよ。なぜなら、私が幼少期を過ごしたのはヴィンニツャ州のハイシンという町で、そこでウクライナ語を知らずに育つことは考えられませんから。もしかしたら、洗練された文学的ウクライナ語ではないかもしれないし、人々が普段話しているような、ロシア語の混ざったウクライナ語かも知れないけれどね。

私がたずねたのは、ウクライナ語の運用能力の話ではないんです。心理的な面は、どうですか。

落ち着かない、というようなことはありません。私がロシア語からウクライナ語に切り替えるのは、たいてい政治的な理由です。私がまだ「コムソモリスカヤ・プラウダ」で働いていた頃、オフィスに来て、同僚と話をしている時、何度か仕事の面での対立が生じたことがありました。その時、私は、半分意識的、いやもしかしたら完全に意識的に、ウクライナ語に切り替えて話をしました。その時同僚が目を丸くしていたのを覚えています。私は、その時こう言いました。「そう、これが私の母語。私は、日常ではウクライナ語で話しているのよ」って。

それは嘘でしたね。

ええ、嘘でした。でも、その時は、それが真実だったら良いのに、って思っていたんです。

多くの人が、原則的な見解を持って(日常的会話を)ウクライナ語に切り替えました。でも、それは、過半数ではありません。そして、切り替えようと思った人はもう切り替えています。残りの人については、彼らをどう鼓舞すべきでしょうか。

そういうものは、ゆっくりと進むものでしょう。一日で実現したらいいのに、そうでなくともせめて1週間で、と私たちが望むことは、私は理解します。でも、人文分野に関わる歴史を見ると、どんなものも、急速に解決したことはないのです。私たちは、言語学を少しかじっている身として、ロシア語が非常に強力な言語だということを知っています。私は、ウクライナ語の方が脆弱だと言いたいわけではありません。でも、ロシア帝国時代、ソ連時代のあらゆる出来事を考慮すると、1年、2年、3年で、ウクライナで、これまでウクライナ語をまったく話してこなかった国民が皆いっせいに、急に美しいこの言語を話し出す、私がそのような課題を設定することはないでしょう。さらに言えば、最近私が考えていることですが、ウクライナ・ロシア語というものがあると思うんです。そして、ウクライナ・ロシア語は、ロシア・ロシア語とは違うものだと思うのです。

ああ、(作家の)アンドリー・クルコフ(アンドレイ・クルコフ)がそのような考えを提示していますね。

このことには、色々な考えがあります。つまり、私は、ロシア語から完全に分離したいなどとはまったく思っていないのです。まったく忘れることや、決別することなどは、まったく。そもそも、私の亡くなった母は、生涯を通じてロシア語とロシア文学を教えていました。だから、私は、金輪際二度とロシア語の言葉を口にしない、などと述べる権利をそもそも持っていません。そして、私のウクライナ・ロシア語がウクライナに存在する権利があることも、確信しています。私たちは今、そして、これは絶対的に正しいことですが、言語問題に別の内容を詰め込んでいます。言語、民族、信仰、という。こららは、確かに、国家創設の要因です。でも、私がもし、「私は、心地の良い衣服、靴を身に着けるのと同じように、ロシア語を使用していきます」と答えたらどうなるでしょうか。私は、ロシア語を完全にやめることはありません。そして、意識的な人間であれば、どんな人であれ、そのような課題を自分に課すことはないと思うのです。

ある程度時間が経った時、ウクライナに平和が訪れた時の、この国の将来の言語的天国、言語的状況というものを、どう考えますか。ウクライナの、将来の言語的平和、将来の言語的秩序はどんなものだと思いますか。

言語的天国…。きれいな表現ですね。わかっているでしょうが、今、私は、何も新しいものは思いつかないでしょう。私はいつだったか、どんな言語が世界の頂点に立つか、という内容の賢いテキストを読んだことがあります。その言語とは、洗濯機から宇宙ロケットまで、あらゆることの説明書が書ける言語だとのことです。私は思うのですが、ウクライナの言語的秩序というのは、結局のところ、国家の一般状況に左右されるものだと思うのです。ほら吹きのミュウヒハウゼン男爵よろしくのウクライナが、現在の混沌から抜け出し、本当の発展を始めれば、他のことは皆、勝手に組み立っていくでしょうから、あえてむちでぶって無理やり進ませるようなことはしなくて良いと思うのです。なぜなら、むちでぶつと、結果はいつも真逆になりますから。もしウクライナが、近代的な発展をするなら、ウクライナ語もそれに応じた発展をすることでしょう。

言語に関しては最後の質問です。テレビで放映される(ロシア語とウクライナ語の)二言語番組はどう思いますか。

それは、全くもって異常だと思います。私は、新聞でも、部分的にウクライナ語、部分的にロシア語というものは好きではないです。皆がロシア語もウクライナ語も理解していますが、でも、どうしてそのような(二言語混在)ものを作るのか、あまり理解できません。そもそも、どこからそんな物を生み出したのかすら理解できません。

残念ながら、言語から憎悪へと話題を移さなければなりません。「そいつを見た回数だけ、そいつを殺せ」。敵への憎悪なしに戦うことはできませんが、しかし、その重たい感情を心に抱いたまま、長い間生活することも不可能です。憎悪の感情は、何に変化するものでしょうか。

私たち皆にとっての悪いニュースがあります。人の中に憎悪の感情が育ったら、平和が訪れるその瞬間まで、その重たい感情が心の内側からどこかへ消えてなくなることはありません。憎悪の感情を細かくして、腎臓結石みたいに外に出せちゃえば良いんですけどね…。

全くの表現ですね!そして、そのための特別の機器と…。

私は、全ての戦争が交渉のテーブルで終了する、というような一般的なことは言いたくありません。でも、私たちは、一つの基本的なことを、よく忘れます。それは、戦争が引き分けで終わることはないということ、戦争は私たちにとって、敗北か、あるいは勝利の形で終了する、ということです。そして、私は、敗北は欲しません。私は勝利を欲します。ただ、勝利とはどのようなものでしょうか。勝利には、どのような内容がなければならないのでしょうか。それは、1945年のベルリン陥落とは比較し得ません。現在の勝利とはどんなものになるか。ドネツィク市を奪還し、そこにあった「石炭産業省」なるものの廃墟に何かを書き込めばいいのでしょうか?

しかし、100年続く戦争もあります。ところで、イスラエルは、良い例でしょう。イスラエルで、アラブ人に対する嫌悪で身を震わせるような人に出会うことは、もうそれほど頻繁ではなくなりました。

しかし、彼らは、自分達の国を守らなければならないことはわかっています。そして、頬をぶたれた時に、反対側の頬を差し出すことは決してないでしょう。彼らは、自らの領土を明け渡さないでしょうし、それは正しいことだと思います。

でも、反対に、ロシア人のウクライナ人やウクライナそのもの対する態度が変わる可能性を信じられますか。

幸いなことに、信じられません。

なぜ「幸いなことに」なんですか?

なぜなら、歴史は、時々、面白い機会を与えてくれるものだからです。もしかしたら、この戦争(編集注:現在のウクライナ・ロシア間の戦い)が起こらなければ、ウクライナのロシアへの漂流は、今も続いていたかもしれません。「ウクライナとロシアは兄弟民族だ」という神話も、現在まで続いていたかもしれません。欧州に向かう激しい動きも起きていたでしょうが、しかし、「(編集注:ロシアとウクライナの間の)我々は根っこが同じなのだ、私たちは精神的には一体なのだ、言語も一体、人としても一体、親族的繋がりがあるのだ」という考えが勝っていたことでしょう。しかしながら、現在、血は絶たれ、ウクライナは今後二度とロシアの影響圏に入ることはありませんし、ロシア人がウクライナ人に対して「ほら、お前たちは私たちの弟なんだ」と言えることも二度とないでしょう。現在、ロシア人、つまりプーチンを支持する86%の人々が、ウクライナについて話すとき、彼らは落ち着かない気持ちに陥るのです。彼らは、「ホホール(編集注:ウクライナ人に対する蔑称)のやつらは、マゼーパ時代から同じだ、あいつらは我々を裏切ったのだ」と言うでしょう。彼らは、私たちのことで、ひどく傷ついているのです。

あなたは、さっき自分で、コムソモリスカヤ・プラウダで働いていた頃、まだ誰も現在の戦争について考えも及ばなかった頃、あなたが急にウクライナ語で話し始めた話をしましたね。それは相当昔のことでしょうし、(ロシアでも、その時からウクライナに対する態度が)何か変わっていたりはないのでしょうか。

私は、変わらないでいて欲しいと思っています。

全く?100年後であっても?

知っていますか。神は、いつ世界を創造するか、私たちには尋ねなかったのです。世界は、なるべくして出来たのです。私たちの想像と実際の現実が一致するか否か、それは誰にもわかりません。でも、私は、個人的に、ロシア人の間のウクライナ人に対する「傷ついた」という大きな感情が永遠に続けばいいなと思っています。つまり、遺伝子のレベルで、現在のロシア人が、自らの子孫に、「あそこに住んでるあいつら、あいつらは決して兄弟なんかじゃないぞ」と伝え続けなければならない、ということです。「みんなでこの枯れ枝を登るようなことは止めよう、いや、それははるか昔のことだ、あいつらは勝手にやらせとけ」というように。私たちは、未来を見ています。そう、ウクライナが成功するためには、生き続ける限り、ロシア人と何も一緒に行わないことが秘訣なのです。

そのようなロシア人とは、ということですか。

もし、故ヴァレリヤ・ノヴォロドヴォルスカヤ(ロシアの政治家、記者、人権活動家)が夢見たように、ロシアがいくつかの核のない平和な国に分裂するようなことが起きたら、私は、その時、私たちは(ロシアに)ビジネス・パートナーを見つけられるようになるのだと思います。もしかしたら、何かしらの人間的次元で関係を維持することはできるかもしれません。でも、現状では、帝国的ロシアとは関係は一切ありえません。

でも、仮にロシアが帝国主義を終わらせたら?ほら、オスマン帝国でアタテュルクが現れ、「おしまいだ、我々には帝国はもうない、我々は新しいトルコを作り上げるのだ」と述べ、そして実際に新しいトルコを作り上げたように。

ロシアでは、それは不可能でしょう。私は、帝国主義遺伝子なるものが結局のところ存在するのだと考える傾向があります。遺伝子研究者や生物研究者は、このようは表現に怒るかもしれません。しかし、ロシアの最果ての集落で、木造の小屋にいる男性が、果実酒を飲みながら考えていることは、飢えた牛のことではなく、子どもたちに食べ物がないことでもなくて、彼は、クレムリンにプーチンがいること、ロシアが核弾頭を有し、それらがアメリカを向いていることを誇っているのです。それが「帝国主義遺伝子」です。どんな人でもプーチンの代わりにはなるでしょうが、このような男性は、これまでどおり存在し続けるでしょう。

わかりました。次は、個人的なレベルの話をしましょう。あなたは、「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙のウクライナ特派員として働いていますね。同紙は、たぶん、ロシアのマスメディアの中で、唯一働いても恥ずかしくないところでしょう。

恥ずかしくないですね。

つまり、あなたはモスクワ、ロシアに、しょっちゅう行っているということですよね、私たちよりは。

一年に一回は行っていますよ。

あなたがやりとりをしている、あちらの現地の人々について、どのように思っていますか。

終わりから話を始めると、私がノーヴァヤ・ガゼータで働き始めたのは2011年からです。その頃は最高でした。私は、ロシアに3か月に1回は行きたいと思っていました。なぜなら…、おそらく、誇張なく言いますが、当時のロシア・ジャーナリズムに残っていたものは、全てノーヴァヤ・ガゼータに集中していたのです。

「ノアの箱舟のようだ」と誰かが呼んでいましたね。

そう、そのとおりです。でも、別の見方からすれば、それは最悪の状況でした。あれだけ巨大な国で、健全なジャーナリストの層があるのに、それが一つの編集部にしか残っていない、という。(ウクライナとロシアの)戦争が始まったとき、私は、自分のところの編集長と話をしました。彼は、私にこう言いました。「あなたにとって、今モスクワを訪れるのが苦しいのはわかっているよ。もし、あなたがモスクワに来なくても、私はあなたを理解する。しかし、これだけは知っておいて欲しいと思うんだ。私たちはあなたが大好きだし、私たちがあなたを前にして、巨大な罪の気持ちを抱いているということを」。

それは、一体何なのでしょうか。彼らを、他のロシア人と比べると、何かしら突然変異のようなことがあったのでしょうか。

彼らは、自分自身を保ったのです。どんなルールにも例外はあります。一つの巣に生まれる白いカラスだっています。彼らには、他の場所はないのです。「ノーヴァヤ・ガゼータ」がいつか閉鎖される日が来たらと思うと…。しかし、ここに一つニュアンスがあります。プーチンは西側を前にして、一本の、ロープですらない、糸を握りつつ、私たちも西側と完全に断絶したわけではない、と言う必要があるのです。「我々にも、ほぼ自由な、ほぼ100%リベラルな新聞社があり、私(編集注:プーチン)のことを『誰でも好き放題殺害するやつ』と呼ぶようなところだが、私はこれを閉鎖しない」と。ノーヴァヤ・ガゼータは、創立以降、6名の記者が殺されました。リスクのある職業です。私は、間違っているかもしれませんが、でも、この新聞はプーチンにとって西側を前にした独特の免罪符なのです。

西側にも、賢い人はいます。

います。しかし、西側は、クレムリンとオープンな戦争はしたがりません。それは当然です。生活水準が高ければ高いほど、社会が発展すればするほど、「戦争」という言葉を不快に感じるものです。現代世界では、イーロン・マスクが火星探検に向かおうとし、人工知能が遺伝子を作る中で、人間が自分自身で銃を持って、何十年前と同じように、互いに撃ち合う、というようなことはあり得ないのです。それは原始的なのです。だから、ヨーロッパの人は「団結し」、私たちの紛争を、シリアの紛争と同じく、彼らのお金で、「可能な範囲で」と言いながら、調整していくのですが、しかし、文明的欧州が最後の悪の帝国を打倒するために戦いに出る、というようなことは決してないでしょう。

ノーヴァヤ・ガゼータの販売数は?

少ないですよ。18万5000部から23万1000部の間を揺れています。

ウクライナにとっては、莫大な数です。

20数万部ぐらいを、例えば、ウクライナの人口を考えて、3分の1で割ったとして、7~8万部でしょう。面白いのは、2011年、私は、興奮しながら、「ノーヴァヤ・ガゼータ」ウクライナ版発行というアイデアを受け入れたことがあります。しかし、1年後、なぜか私は、ノーヴァヤをウクライナ語に訳すなんて意味がないと、考え直しました。翻訳というのは、非常に大変な仕事です。そして、翻訳しないと、どんなに素敵な新聞だとは言え、ロシア語の新聞ということになります。戦争の最中、たとえ内容が金銀ダイヤのような優れたものだとしても、ウクライナで戦争相手の国から出された新聞となると…。一人の特派員がいるだけで十分なんじゃないか、私はそう思ったのです。だから、私はノーヴァヤで働いているのです。

ロシアには、親族はいませんか?

幸いなことに、いません。

でも、多くの人が、そのように幸いなわけではありません。彼らはどうすべきでしょうか。

わたしは、そこに普遍的な解決方法があるとは思いません。第一に、わたしは、「親族」なるものの定義を、かなり批判的に考えています。私にとって全く他人と呼べる人であれば、親族は、一生を引きずられるような「かせ」ではないです。現代世界では、親族のつながりなど非常に条件的なものです。もし私が、ある親族の繋がりに全く肯定的なものがないと感じるなら、私の方からそれを断ち切ります。それは普通のことです。私には、親族の繋がりは宿命ではないと思えるのです。私たちは、自分以外の誰にも、責任は負っていないのです。

それは、あなたの個人的な性格でしょう。

わたしは、自分のことを話しているのです。たぶん、私には、誇張なく、私が親しいと思う人が十分に多くいますし、その中には、ロシアで暮らす人、ノーヴァヤで働く人もいます。例えば、ジーマ・ムラトフ、89年に知り合い、彼のおかげで、私はコムソモリスカヤ・プラウダに入ったのです。

でも、私たちは、ロシアと共有する文化空間をどう区別すべきなのでしょうか。ウクライナでは、二つに一つのアパートには、本棚の中に、チェーホフ、ブーニン、パステルナク、ヴォズネセンスキー、ねこマトロスキンが並んでいます。これはどうすべきと思いますか。

つまり、私たちがどうしようもないということは、ウクライナの文化の方が弱いということになりますね。あーあ、偉大なロシアの文化の陰で…。

弱いのではなく、第一に、発展の機会が与えられなかったのでしょう。第二には、弱いのではなく、異なるものなのです。

えーと、あまり遠回りしないようにしましょうか。私たちには、共通のすばらしい知り合いとして、オレクサンドル・カバノフがいます。彼は、ロシアとウクライナの詩人で、輝かしい人物です。つまり、彼はウクライナ語でも詩を書いていますし、それは劣るものではなく、紛れもなく彼の作品です。

私は、ちょっと違うことを言いたかったのです。私たちは、1920~30年代、長年にわたり、ウクライナの優れた文化人が粛清されました。もしかしたら、そのせいで、私たちには文化層が成長しきらなかったのではないかと。例えば、私たちには、いわゆる都市ロマンスのようなものがありませんし、ブラート・オクジャワのような立場の人もいません…。

私には、解決レシピはありませんよ。私は、今の状況を述べているだけです。現在、少なくとも、私には、出版社に影響を与える経済状況以外には、ウクライナ文学、ウクライナ出版を邪魔立てするものは何もないと思っています。Googleで検索してみれば、何百万というウクライナ語の本がヒットします。英語、ドイツ語、ロシア語からの翻訳も多くあります。つまり、私が一読者として読みたいものは、ウクライナ語で全てあるのです。もし、経済状況も全て問題なければ、文化は発展するでしょう。私は、「ウクライナの才能に道を与えよ」のようなおぞましいスローガンだけは嫌なのです。質が全てです。作品には質が、文化には質が、小説も詩も同じです。私にも、ウクライナのオクジャワのような人が必要だと思いますが、しかし、30年前に比べれば、彼のような人物の必要性は格段に下がっています。ソ連の赤き人民委員会がやったようなことを、私たちが繰り返す様なことだけには、なって欲しくないですね。

大切なのは、ウクライナ文化の前に、新しい可能性が開けることだと思います。

そう、それは、大切ですし、基本となるものです。しかし、あなたがウクライナ語の本を読まなければ、誰が本を書くでしょうか。小説家には読者が必要です。私は、読者ですし、ウクライナ文化の発展への貢献をしていると思います。私は、ウクライナの本、ウクライナの散文を読んでいます。でも、それはウクライナの小説家にプレゼントをしているわけではないのです。私にとっては、それは体操のようなものです。「聞きな、こいつはまだ勉強中だから、私は金を出してこの本を買ってやるんだ」みたいなことは、言えないですよ。

(ウクライナの本に)気に入るものはありましたか。

セルヒー・ジャダンの「寄宿学校」を買わないとと思っています。まだ読んでないです。あと、ソフィヤ・アンドルホーヴィチが好きです。

私たちの間に、いわゆるウクライナ政治的ネイションが形成されていると言われていることについて、どう感じていますか。

ウクライナの政治的ネイションは、テレビが形成しています。新しいものなんか何もないです。ロシアと同じです。私の考えでは、ウクライナ・ネイション誕生の貴重なタイミングは、マイダンを生き延びた2013~14年にあったと思います。でも、今は、人々は、テレビが見せる泥沼の深みにはまっています。ロシアと同じです。覚えていますか、ソ連が消えて、ロシアが独立したときのことを。私たちは、モスクワの方向を見て、うわー、ソプチャクだ!デモが行われている!ホワイトハウスの護衛だ!等と話したものでした。そして、20年が経ち、これらすべてがどうなったでしょうか。86%の国民が、「国民の父」「ツァーリ」なるプーチンを愛しているのです。これらすべては、マスメディアのせいで、第一にテレビのせいです。テレビが全ての家に入り込んで、どうやって生活すべきかを述べているせいです。

現在、国民の半分は、テレビを全く見なくなり、インターネットを使っています。そこで、映画やドラマを見ています。

おもしろいですね。国民の半分がテレビを見ていないと言っていますが、その同じ人が、(テレビ放映された)メドヴェチュークのインタビューの話をしたりしているのです。どこで彼らがそういうことを知るのか興味深いです。

フェイスブックでしょう。フェイスブックからリンクで飛んで、番組を見ているのでしょう。

番組を見て、印刷されたものを見て、テレビを見ていないと言えるのでしょうか。

メドヴェチュークの事例に関して言えば、彼については、国民はほぼ皆同じ意見を持っていると思いますよ…。

国民のほぼ同じ意見というものが、フェイスブックのタイムラインから形成されているということ?

その危険はわかっていますよ。しかし、私たちに、政治的ネイションはあるのでしょうか。政治的ネイションとは、色々な民族の集合体で、それぞれがウクライナという国家を自らの祖国だと思うものです。あなたには、この件について、悲観的感情はありますか。

ええ、私には悲観的感情があります。あなたが言うような定義にあてはまる、非常に多くの人が、積極的、あるいは、半分積極的な、政治的、市民的、ボランティア的活動を離れていきました。そして、彼らは、またもソヴィエト時代のような状態に戻っているのです。つまり、「これが私の親族、これが私の身近な親友サークル、この人たちは、私が支持していて、会話している人達で、彼らの問題とともに私は生きているの、世界規模の問題は私は解決できない」というような状態です。

私が思うに、私たちは現時点で、それで十分なのだと思います。思い出してください。オレンジ革命の後、同じプロセスがありました。同じように、オレンジ革命を行った人々が、去っていき、自分の台所に閉じこもっていきました。でも、2013年11月、彼らは…

また集まってきた。

そうです。私が思うに、そういう、揺れ、なのです。自然な。

それは自然なプロセスですね、私はあなたに同意します。しかし、えーと、私は、(ウクライナの)政治的ネイションの形成プロセスは、止まっていない、続いていると思います。しかし、ネイションはすでに形成された、と言えるような真剣なレベルでは、まだないと思います。

真剣なレベルというのは?

例えば、戦争と平和の問題の解決とすら言えるでしょう。他方、社会でそのようには言わないでしょうが。そのために、ミンスク諸合意があるのですし。仮に今、社会で、ドンバス問題に関して、社会的議論や国民投票を行ったら…。聞いてください。戦争は5年間続いているのです。人々は、神よ、我々はどんなに疲れ果てたことか、と話し始めているのです。

そこで、ドンバスを手放すか、奪取するか、という議論が生じるかもしれません…。

手放すことも、襲撃して奪うことも、フィルターにかけることも、独立を与えることも、ウクライナを現在コントロールしている範囲のものにしてしまうことも、ウクライナにその準備があるか否か、私にはわかりません。しかし、同時に、国民投票が示し得る結果が人々を満足させるかどうかにも、確信がありません。

どうして、「マイダン党」のような政党が作られなかったと思いますか。そういう政党が、マイダンのエンジンとなった人たちにより、その精神でもって、マイダンの計画を文書化して、創設されるべきでした。

私には、「マイダン党」というのは、完全なユートピア的プロジェクトに思えます。思い出してください。マイダンの最初に現れたのは、政治家ではなかったのです。

でも、政党は、政治家だけで作られるものでしょうか。政党の資金は、誰が払っているのでしょう。

人々が政党を欲していなかった。彼らは、単に去っていったのです…。

みんなではありません。ポーランドでは、国民の動きがワレサを推し出しましたし、チェコではヴァーツラフ・ハヴェルが担がれました。でも、私たちは、ヤツェニュークと、チャフニボクとクリチコでした…。

そうですね。他の国のプロセスは政治的だった、でも私たちのは歴史的プロセスだった…。そして、それはより上級のものです。なぜなら、2013~14年にウクライナで起きたことは、何かと比べることはできません。私たちがその時行ったことは、信じられないことで、宇宙的な距離を縮めたのです。

わかりました。同意しましょう。政党はあり得なかった、作りようがなかった。では、その結果は?またもや、選挙が近づいています。これまでと同じ選挙です。ステージ上で誰かが演説をし、同じ投票用紙が配られます。何も新しいことはないですし、誰も新しい人はいません。これは、普通でしょうか。

普通のことです。なぜなら、それは進化だからです。私は、歴史的プロセスが進行していると言いました。歴史的プロセスは、省略できません。

しかし、選挙は歴史的ものではなく、政治的なものです。優れた人を選ばなければなりません。

私がそれを望んでいないと思いますか?私にだって、普通の文明的な国で暮らしたいと思っています。でもね、私たちは、現在進んでいるものをごり押しすることはできないのです。私たちは、どうやってプロセスを加速させる物について考えるしかないのです。私たち、メディア分野で働く者は、どうしたらプロセスを加速させられるかを考えなければいけないのです。

私は、そのことについて聞いているのです。5年経ちました。なぜ、何も誰も、新しいものが出来上がっていないのでしょうか。私には、それが理解できないのです。多くの教育ある人がいます。非常に優れた考えを持つ人がいます。インターネットもあります!でも、リーダーがいないのです。

聞いてください。もし、人に教育があったとして、どうして彼らは政治に向かわなかったのだと思いますか。人々は、本当に政権に、政治に入りたくないのです。政治は醜いものです。

もしかしたら、それはウクライナの精神的な性格でしょうか。

もしかしたらね。ウクライナ人には、結局のところ、少しアナキズムがあるのかもしれません。わかっているでしょう。マイダンを叫び、タイヤを燃やした後で、でも、その後、立ち去って、よし、次は選挙だ、と、まるで何もなかったかのように向かうようなところがあるのです。いや、マイダンを支持し続けましょうよ!と思いますが、もしかしたら、それは私たちの民族的特徴なのかもしれませんね。

華やかな夢について話しましょう。理想的なウクライナとは、どんなものだと想像しますか。どのような国民がいて、どんな人がリーダーになっていると思いますか。

リーダーになるような人の名前は知りません。私は、結局のところ現実は簡単に夢を見させてくれるものではないことを知っています。でも、どういう国になって欲しいか、他の国と比べることはできるでしょう。もちろん、私は、何かしら中間の国であって欲しいと思います。他方、アメリカとスイスの真ん中というのは、どうやっても無理でしょうけれど。

ウクライナの特殊性を考慮すると?

私は、ウクライナ独特の道なるものは信じていません。それは、表現としては美しいですが、しかし、現代のグローバル化した世界に、そんなものは存在しません。

あなたは、どちらかといえば、楽観主義者ですか、悲観主義者ですか。

楽観主義者です。これは私の性格から生まれた考えです。ウクライナは、過去には国家として成立できなかった。しかし、大昔から、ヘトマン・スコロパツィキーの時代までの間、チャンスは何度も得ていた、でも結果としてはなるようにしかならなかった。そして、現在があるのです。もうこれ以上無駄に歩き回ることは誰もしないと思ったでしょう!でも、実際には、歩き回り続けています。つまり、何かしら私たちをそういう風に動かす強力なエンジンがあるのでしょう。私は、たとえ私たちの中に物事を正しく運営する賢い人達が不足しているのだとしても、私たちを運ぶ歴史的な流れが私たちを正しい方向へ運んでくれると、とても強く思いたいです。

セルヒー・ティーヒー、キーウ

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